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| 使徒信条 | ニケア信条 | アタナシウス信条アウグスブルグ信仰告白小教理問答書  
     
 

私たちルーテル教会の信仰

 私たちの教会の信仰は、教会憲法の第二章に次のように記されています。
「第2条 本教会は、聖書が聖霊によって賜った神のことばであると信ずる。ゆえに、聖書は、キリスト者の信仰と行為の唯一であって完全な規範であり、すべての教理と教えとは、聖書によるべきものであることを信ずる。
第3条 本教会は、使徒信条、ニケア信条及びアタナシウス信条が聖書の教理と教えに一致するものであることを認める。
第4条 本教会は、変更されていないアウグスブルク信仰告白及びルターの小教理問答書が神のことばに基づき、本教会の信仰及び教理を正しく表明するものであることを認め、これらに掲げられた信仰告白をまもる。
第5条 本教会は、アウグスブルク信仰告白弁証論、ルターの大教理問答、シュマルカルド信条及び和協信条が、アウグスブルク信仰告白と同じく、聖書の教理と教えに一致するものであることを認める」

私たちの教会は、時代に生きる教会として、さまざまな変化に柔軟でありたいと願っています。しかし、ここにある信仰告白だけは、時代を貫いて真理であるという点を私たちルーテル教会は動かすことはないのです。

 
   
 

使徒信条

天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。

そのひとり子、わたしたちの主 イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。

聖霊を私は信じます。また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。

※「使徒信条」の成立過程は不明で、2世紀すでに洗礼式で使われていました。
※この「使徒信条」は、ルーテル教会の礼拝式文より引用しました。

 
   
 

ニケア信条

天と地と、すべての見えるものと見えないものの造り主、全能の父である唯一の神を私は信じます。

唯一の主 イエスキリストを私は信じます。主は神のひとり子であって、すべての世にさき立って父から生まれ、神の神、光の光、まことの神のまことの神、造られたのではなく、生まれ、父と同質であって、すべてのものは主によって造られました。主は私たち人間のため、また私たちの救いのために天から下り、聖霊により、おとめマリヤから肉体を受けて人となり、ポンテオ・ピラトのもとで私たちのために十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書のとおり三日目に復活し、天に上られました。そして父の右に座し、栄光のうちに再び来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。その支配は終わることがありません。

主であって、いのちを与える聖霊を私は信じます。聖霊は父と子から出て、父と子とともに礼拝され、あがめられます。また、預言者をとおして語られました。

唯一の、聖なる、公同の、使徒的な教会を私は信じます。

罪のゆるしの唯一の洗礼を私は受けいれます。死人の復活と来たるべき世のいのちを待ち望みます。

※「ニケア信条」は325年制定され、380年代改訂され、589年「子からも」が挿入され現在にいたっています。
※この「ニケア信条」は、ルーテル教会の礼拝式文より引用しました。

 
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アタナシウス信条

1. 救われたいと願う者はみな、すべてのことに先立って、公同の信仰を保つことが必要である。
2. この信仰を完全に、汚すことなく守るのでなければ、疑いもなく、永遠に滅びる。
3. 公同の信仰とは、唯一の神を三位において、三位を一体においてあがめ、
4. 位格を混同せず、本質を分離しない信仰である。
5. 父の位格、子の位格、聖霊の位格はそれぞれ異なる。
6. しかし、父と子と聖霊の神性は一、栄光は等しく、尊厳は永遠。
7. 子と聖霊は父と同じである。
8. 父は造られたものでなく、子も造られたものでなく、聖霊も造られたものではない。
9. 父は測り知れず、子も測り知れず、聖霊も測り知れない。
10. 父は永遠、子も永遠、聖霊も永遠。
11. しかも永遠なものは、三でなく一。
12. 造られないものが三あるのでないように、測り知れないものも三あるのではなく、
造られないもの、測り知れないものはただ一つ。
13. 父は全能、子も全能、聖霊も全能。
14. しかも全能なものは、三でなく一。
15. このように、父は神、子も神、聖霊も神。
16. しかも、神は三ではなく一。
17. このように、父は主、子も主、聖霊も主。
18. しかも主は三ではなく一。
19. キリスト教の真理によって、それぞれの位格を、個別に神であり、
主であると告白することが求められており、三神三主について語ることを、
公同の信仰によって禁じているからである。
20. 父はなにものから成ったのでも、造られたのでも、生まれたのでもない。
21. 子は父からのみ生まれたのであって、成ったのでも、造られたのでもない。
22. 聖霊は父と子から出るものであって、成ったのでも、造られたのでも、生まれたのでもない。
23. だから、父は一であって三ではなく、子も一であって三ではなく、聖霊も一であって三ではない。
24. また、この三位一体においては、どれが先でどれが後、どれが大でどれが小ということはない。
25. むしろこの三位格はみな、ともに永遠で、同等である。さきに述べたとおり、
すべてをとおして、三位が一体において、一体が三位においてあがめられるのである。
26. それゆえ、救われたいと願う者はみな、三位一体について、そのように信じなければならない。
27. さらに、われわれの主イエス・キリストの受肉についても、正しく信じることが、
永遠の救いのために必要である。
28. 正しい信仰とは、われわれの主イエス・キリストが神の子であって、
神であり人であることを、われわれが信じ告白することである。
29. 神であるというのは、すべの世に先立って父の本質から生まれたことであり、
人であるというのは、この世に母の本質から生まれたことである。
30. キリストは完全な神であり、完全な人であって、理性的な魂と人間の肉をとっていて、
31. 神性にしたがえば父と等しく、人性にしたがえば父より小さい。
32. 神であり人であっても、ふたりのキリストではなく、ひとりのキリスト。
33. 神性が肉に変わったからではなく、神のうちに人性をとったから、ひとりのキリスト。
34. 本質の混同によってではなく、位格が一であるから、ひとりのキリスト。
35. 理性的な魂と肉とがひとりの人となるように、神と人とがひとりのキリストになっている。
36. キリストは、われわれの救いのために苦しみを受け、よみに下り、死人の中から復活し、
37. 天に昇り、父の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばく。
38. 主が来ると、すべての人はからだをもって復活し、
おのおの自分の行いについて申し開きをするのである。
39. 善を行なった人は永遠のいのちに入り、悪を行なった人は永遠の火に入る。
40 . これが公同の信仰である。これを忠実に、また確実に信じる者でなければ、救われることはできない。

 

※「アタナシウス信条」は三位一体と受肉を内容とし、キリスト論・使徒信条・ニケア信条を補足しています。
※詳しい成立の過程は不明で、最初、西方教会で使われました。この信条の登場は11世紀です。
※この「アタナシウス信条」は、ルーテル教会信条集より引用しました。
 
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アウグスブルク信仰告白

 アウグスブルグ信仰告白は、アウグスブルグで開催された国会に提出されたルター派の信仰告白です。「信仰の主要条項」(第1部21条)と「分裂のある事柄についての条項(悪習について検討し正したもの)」(第2部7条)から成ります。アウグスブルグ信仰告白はメランヒトンが起草しましたが、ルターの起草によるシュマルカルデン条項と比較されます。
一致信条書に収められている信条文書のうちで、全世界のルーテル教会が基本的に同意している文書は『アウグスブルク信仰告白』(1530年、第1部21条と2部7条からなる)です。これはラテン語本文とドイツ語本文の二つの形で伝わっていますが、ここにはその主要部分として、ラテン語本文から訳した第1部第1条から第17条を掲載いたします。(徳善)


信仰の主要条項

第1条 神について
 われわれの諸教会は、一致してこう教える。神のひとつの本質と三つの位格についてのニケア公会議の教令は、真実であって、いささかも疑うことなく信じられるべきである。すなわち、永遠の、形体のない、不可分の、無限の力と知恵と善をもつ、見えるものと見えないものを問わず万物の創造主、また維持者である、神と呼ばれ、またそうである唯一の神的本質が存在する。しかも、同一の本質と力をもち、ともに永遠である、父と子と聖霊の三つの位格が存在する。そして「位格」という言葉は、教父たちがこの関係で用いたように、他のものの一部分あるいは一性質ではなくて、自ら存在するものを意味するものとして用いられる。
 われわれの諸教会は、この条項に反して起こったあらゆる異端を非難する。すなわち、善と悪の二つの原理をすえたマニ教徒、同じくヴァレソテ″ヌス派、アリウス派、エウノミオス派、回教徒の他すべてこれに類する異端である。また、新旧サモサタ派をも非難する。彼らはただひとつの位格のみが存在すると主張し、能弁を弄して不敬虔にも、みことばと聖霊とは別の位格ではなく、みことばは口頭の言葉を、み霊は彼造物の中に起こされた活動を意味すると論じるのである。


第2条 原罪について 
われわれの諸教会は、またこう教える。アダムの堕罪以後、自然の理によって生まれるすべての人間は罪をもって生まれてくる。すなわち、神を畏れず、神に信頼せず、肉の欲を持っている。そしてこの生来の疾患ないし悪は、ほんとうに罪であって、洗礼と聖霊によって生まれ変わらない人々を、今なお呪って、これに永遠の死をもたらすのである。
 われわれの諸教会は、この生来の悪が罪であることを否定し、また人間は自己の力と理性によって神の前に義とされることができると主張して、キリストの功績と恩恵の栄光をくらまそうとする、ペラギウス派とその他の人々を非難する。


第3条 神のみ子について>
 われわれの諸教会はまた、こう教える。みことば、すなわち神のみ子は、祝福された処女マリヤの胎内で人性をとられた。それで、ひとつの位格の中に不可分的に結合した神性と人性の二つの性質がある。真の神でありまた真の人間であるこのひとりのキリストは、処女マリヤから生まれ、真に苦しみ十字架につけられ、死んで葬られた。これは父をわれわれと和解させ、原罪のためばかりでなく、人間が実際に犯したすべての罪のためにも、犠牲となられるためであった。彼はまた、陰府にくだり、三日目にほんとうに復活なさった。そののち、天に昇り、父の右に坐して、永遠に統治し、
すべてのつくられたものを支配し、また彼らを治め、慰め、生きかえらせ、悪魔と罪の力から彼らを守る聖霊を彼らの心に送ることにより、彼を信じる人々を、
聖化なさるのである。このキリストこそ、使徒信条にあるとおり、生きている者と死んだ者などを審くために、公けに再びこられる。

  

第4条 義認について
 また、われわれの諸教会はこう教える。人は自らの力、功績、または行ないによって、神の前に義とされることはありえない。むしろ、恵みの中に受けいれられたこと、またその死をもってわれわれの罪をあがなってくださったキリストのゆえに罪がゆるされること
を信じるとき、信仰をとおし、キリストのゆえに、無償で義とされるのである。この信仰を、神はみ前に義と認めてくださるのである。ローマ人への手紙第3、4章。


第5条 教会の職務について
 われわれがこの信仰を得るために、福音を教え、聖礼典を分け与える職務が設定された。というのは、みことばと聖礼典によって、あたかも道具をとおすように聖霊が与えられるからであって、聖霊は、神のみこころにかなう時と所とにおいて、福音を聞く人々のうちに信仰を起こすのである。たしかに、キリストのゆえに自らが恵みの中に受けいれられることを信じる人人を神が義とされるのは、われわれの功績のゆえにではなく、キリストのゆえにである。ガラテヤ人への手紙第3章〔14節〕には、われわれはみ霊の約束を信仰によって受けるとある。
 われわれの諸教会は、聖霊が、外的なみことばによらずに、ただ自分たちの準備と行為によって、人々に与えられると考えている、再洗礼派やその他の人々を異端と宣告する。
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第6条 新しい服従について
  また、われわれの諸教会はこう教える。この信仰は必ずよい実をもたらすものであり、また神に命じられたよい行ないを行なわずにいない。それが神のみ旨であるからであって、われわれが神の前に義とされるに値いするよう、そのような行ないによりたのむからではない。というのは、罪のゆるしと義認とは、信仰によって把握されるからである。それは、キリスト
のみことばも、「あなたがたも命じられたことをみなしてしまったとき、わたしたちはふつつかなしもべです、と言いなさい」〔ルカ17・10〕と証ししているとおりである。同じことが、古代の教父たちによっても教えられている。すなわち、アソブロシウスは、「キリストを信じる者が、行ないによらず、ただ信仰によってのみ救われ、無償で罪のゆるしを受けるということは、神の定められたことである」と言っている。

第7条 教会について
  われわれの諸教会はまた、こう教える。唯一の聖なる教会は、永遠に存続する。教会は、聖徒の集まりであって、その中で福音が純粋に教えられ、聖礼典が正しく執行される。そして、教会の真の一致のためには、福音の教理と聖礼典の執行について同意すれば、それで十分である。人間的な伝承、あるいは人の定めた儀式や祭式は、どこにおいても同じでなければならないという必要はない。それはバウロが「ひとつの信抑、ひとつのバプテスマ、ひとりの神、またすべての者の父」云々〔エペソ4・5、6〕と言っているとおりである。


第8条 教会とはなにか
 教会は、本来聖徒と真の信仰者の集まりであるとはいえ、「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている」 〔マタイ23・2〕などとキリストのみことばにあるように、やはりこの世では多くの偽善者や悪人がこれにまじっているから、悪人によって執行される聖礼典を用いても有効である。聖礼典もみことばも、キリストの設定であり委託であるから、たとえそれが悪人によって与えられても有効なのである。われわれの諸教会は、教会において悪人の教職を用いることが有効であることを否定し、悪人の教職は無効で、何の力もないと考えたドナトクス派およびその同類を異端と宣告する。
 

第9条 洗礼について
 洗礼について、われわれの諸教会はこう教える。洗礼は救いになくてはならないものであって、洗礼によって神の恵みが与えられるのである。また、幼児は受洗すべきである。幼児は洗礼によって神にささげられ、神の恵みのうちに受け入れられるからである。われわれの諸教会は、幼児の受洗を許さず、また幼児は洗礼を受けなくても救われると主張する再洗礼派を、異端と宣告する。
 

 
第10条 主の晩餐について
 主の晩餐について、われわれの諸教会はこう教える。キリストのからだと血とは、主の晩餐において、真に現在し、それを食する人々に分与される。そして、われわれの諸教会は、これと異なることを教える人々を是認しない。


第11条 ざんげ告白について
 ざんげ告白について、われわれの諸教会はこう教える。罪の個人的な赦免は、教会の中に保持されるべきである。しかしざんげ告白において、すべてのとがを数え上げる必要はない。なぜなら、詩篇に「だれが自分のとがを知りましょうか」 (19・12)とあるように、それは不可能だからである。
 


第12条 悔い改めについて
 
悔い改めについて、われわれの諸教会はこう教える。洗礼後に堕落した者も、回心すればいつでも、罪のゆるしをうけることができる。そして、教会は立ちかえって悔い改める者にゆるしを与えなければならない。しかしながら、悔い改めはもともと二つの部分から成り立っている。ひとつは痛悔、すなわち罪の認識によって良心をさいなむ恐れであり、いまひとつは信仰であって、それは福音あるいは罪のゆるしから生じ、そして、キリストのゆえに罪がゆるされることを信じ、良心を慰めまた恐れから解放する。ついで、悔い改めの実であるよい行ないが、必然的にこれに伴うはずである。
 われわれの諸教会は、ひとたび義とされた者も聖霊を失うことかありうるということを否定する再洗礼派を、異端と宣告する。また人はこの世において、罪を犯すことができないほどの完全に達しうると主張する人々をも異端と宣告する。
 また、洗礼後堕落した人々を、彼らが立ちかえって悔い改めても、ゆるそうとしなかったノヴァティアヌス派も異端と宣告される。
 さらにまた、罪のゆるしは信仰によって与えられると教えず、自らの償いによって恵みを受けるに値いするようになることをわれわれに命じる人々も、斥ける。
  
第13条 聖礼典の使用について
 聖礼典の使用について、われわれの諸教会はこう教える。聖礼典が制定されたのは、人々の間に信仰表明のしるしとなるばかりでなく、ことにわれわれに対する神のみ旨の標識となり証拠となるためで、これを用いる人々に信仰を目ざめさせ、確かにするために設けられたのである。したがって、聖礼典が用いられるには、聖礼典によって提供され示されている約束を信じる信仰が加えられなければならない。
 <したがってわれわれの諸教会は、聖礼典が外的な執行行為によって(exo Pereo Perato)義とすると教えて、聖礼典を用いるには、罪がゆるされることを信じる信仰が必要であることを教えない人々を、異端と宣告する>。

第14条 教会の秩序について
 教会の秩序について、われわれの諸教会はこう教える。だれであろうとも、正規に召された者でなければ、教会において公けに教えたり、聖礼典を執行したりしてはならない。


第15条 教会の諸儀式について

 けれども、このような事柄に関しては、これを守ることが救いに必要であるかのように、良心に重荷を負わせることのないよう、人々を戒めるべきである。
 なおまた、神をなだめたり、恵みをかちとったり、罪のつぐないをしたりするために制定された人間的慣習は、福音と信仰の教理に反することを警告しなければならない。したがって、恵みをかちとり、罪のつぐないをするように設けられた食物や日などに関する誓願や慣習は、無益であり、福音に反する。

第16条 市民生活について
 市民的な事柄について、われわれの諸教会はこう教える。正当な市民的秩序は、神のよいみわざである。また、キリスト者が公職につき、裁判官の職務を行ない、国法やその他の現行法によって諸事を決し、正しく刑罰を定め、正しい戦争に従事し、兵士となり、法定の取り引きをし、財産を所有し、裁判官の要求に応じて宣誓し、妻をめとったり、とついだりすることは、正当である。
 われわれの諸教会は、キリスト者にこれらの市民的なつとめを禁じる再洗礼派を異端と宣告する。
また、福音の完全を神への畏れと信仰におかず、市民的つとめを避けることにおく人々をも、異端と宣告する。福音は心の永遠の義を教えるが、しかし国や家庭を破壊せず、かえって神の定めとしてそれを保つことと、そのような秩序の中での愛の実践をことに求めるからである。したがって、キリスト者は必然的に役人や法律に従わなければならない。ただ、彼らが罪を犯すことを命じた場合は、この限りではない。そのような時には、人よりも神に従うべきであるからである。使徒行伝第5章〔29節。


第17条 審判のためのキリストの再臨について
 また、われわれの諸教会はこう教える。この世の終わりに、キリストは審判のために現われ、すべての死者を復活させてくださるであろう。そして、敬虔な人々と選ばれた人々には、永遠のいのちと尽きない喜びとを与え、不敬虔なものと悪魔とには、果てしもない苦しみを宣告なさるであろう。
 われわれの諸教会は、罪を宣告された人々と悪魔に対する刑罪にも終わりがあるであろうと考える再洗礼派を異端と宣告する。また、現在ユダヤ的な見解を流布して、死人の復活に先立って、敬虔な人々がこの世の国を支配し、不敬虔な者たちはあらゆる所で制圧されるであろうと説いているその他の人々をも、異端と宣告する。

 
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