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宗教改革500年

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この文章は1976年に「世界の思想家」(平凡社、全24巻)の第5巻として出版されたものの冒頭に載せた宗教改革者マルチン・ルターの生涯と思想/信仰の紹介としてまとめたものです。久しく絶版となっていたものを、リトン社が『マルチン・ルター 原典による信仰と思想』として2004年に新版の形で刊行してくれました。この「生涯と思想/信仰」に続いて、「聖書を読む」、「対決と形成」、「キリスト教的人間」、「フマニスムスとのかかわり」、「歴史に生きる」の5章にわたって、いずれもルター原典から選んだ彼自身の言葉が訳されていて、その信仰と思想に触れることができます。(著者 徳善義和)

目次

1.ルターの凝視したもの

体系家でなく
 状況の神学者

2.ルターの形成

 誕生
 素姓
 生い立ち
 大学生活
 修道院入り
 神学研究へ
 神学教授

 

3.宗教改革者

 第1回詩編講義
 95箇条
 決断を迫られる
 宗教改革文書の刊行

4.宗教改革の展開

 決定的決裂
 ワルトブルクで
 再び改革運動の渦中へ
 深刻な危機
 熱狂主義との対決
 農民戦争の中で

 

5.「突破」に生きる

 フマニストとの訣別
 ルターの結婚
 領邦教会制

6.晩年のルター

 晩年の活動
 ルターの最後
 ルターの評価

    

 

イラスト:中川浩之

   

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思想と生涯  状況の神学者ルター

 

1.ルターの凝視したもの

体系家でなく

 思想家には、多く体系家がいる。現実との戦いや、思想の内的な戦いをとおして、自らの思想を内にじっくりと構築し、それをひとつ、もしくは数少ないいくつかの主著によって公にし、後世にも残すタイプである。そのような体系的思想家に対するには、私たちはその主著と徹底的に取り組むことになる。主著をとおして思想家との対話が可能になる。キリスト教思想の歴史を見ても、トマス・アクィナスとかカルヴァン、そして近くはカール・バルトなどはそうした体系的思想家にはいる。

 しかし、思想家は体系家ばかりではない。自己自身の内なる状況や、外の状況との絶えざる戦い、折衝の中で、そうした状況を生々しいほどに反映させながら、その時々の自分の戦いの軌跡を残していく思想家である。このようなタイプの思想家を私たちは、体系家に対して「状況家」と名付けることができるであろうか。このような人において、一あるいは少数の主著をあげることは困難である。その思想を学ぼうと思えば、体系化された思想に触れるよりも、状況の中に形成されつづけた思想の発展を跡づけねばならないことになる。発展を跡づけた後に、或る程度までその思想を、学ぶ者の立場をも反映させながら一応体系化してみることができるときもあれば、それすら可能でないときもある。

状況の神学者

 マルチン・ルターは後者、状況的な思想家のひとりである。彼には主著と言いうるような一、もしくは少数の著作はない。一生かかって彼は、自らが身を置いた状況の中で、あるいは外から求められ、あるいは内からほとばしり出るものを、紙にぶっつけていった。私たちはそこにひとりの思想家の戦いや苦悶や破れの跡を見る。体系化された、静的に整ったとも思える思想のかわりに、ある意味ではとらえようもないほどに動いて止まない思想に触れる。その動きは一見ばらばらで、まとまりがないようだが、動きにつれて凝視する者のまえに、やがてその動きの核とも言えるものが見えてくる。激動する状況の中で、彼が一点凝視しつづけたものである。そういう意味で、この一点を「神」であるとも、「十字架のキリスト」であるとも、言うことができる。状況の思想家としてのルターは、それゆえ「状況の神学者」と呼ばれることがふさわしい。このような人にあっては、体系的思想家の場合以上に、その生涯と状況とが大きな意味をもってくる。その思想に触れようとする者は、脈絡、前後関係の中で、著作に当たらなければならないのだ。ルター自身が、私たちにそのことを要求していると言ってよいだろう。

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2.ルターの形成

誕 生

 マルチン・ルターの母マルガレーテは、誕生を11月10日の深夜とはっきり記憶していたという。翌11日、聖マルチンの日に教会で洗礼を受けさせたことは、記憶の確かな根拠になっていたはずである。ところがそれが何年のことだったのかは、彼女の記憶でははっきりしなかったらしい。前後数年のできごとを綴り合わせて見て、それが1483年のことであったというのは、ほぼ確実のこととして受けいれられている。当時のほとんどすべての人々の場合と同様、ルターの誕生はこの世の片隅で、人知れず起こった始まりであった。両親、ハンスとマルガレーテのことを考えれば、その思いはいっそう強くなる。

素 姓

 ルター自身が述べているところによれば、彼は「農民の子」であった。事実に即して言うと、「農民の子」と自称していたとも言える。父親ハンスは確かに農民の出であった。今の東ドイツに属するチューリンゲン地方の小村メーラには、ルターの父祖たちの住んでいたと言われる家が、もちろん後の修復を経てではあるが、残っているという。しかし、末子相続の原則があったこの地方で、長男ハンスがこの家を継ぐことはなかった。もっと昔だったら、ハンスは村外の荒れ地を開いて、自らも農民として生きる道を講じたかも知れない。しかし、一五世紀末の時代の中で、窮状を強いられながらも一応確実な農民の生涯よりも、ハンスは確実さは少なくても、mansfelt可能性のある新しい生き方を求めたのではなかったろうか。

 故郷メーラを出て、鉱山での職を求めて、ハンスとマルガレーテの旅が始まった。アイスレーベンでハンスがなにをしたのかつまびらかではない。鉱夫として生きる可能性を、この町は十分彼に提供しなかったようだ。マルチンの誕生後半年ほどで、一家は程遠からぬ銅鉱の町マンスフェルトに移住している。ハンスにとって鉱夫の生活が、マルチンにとって鉱夫の子の生い立ちがそこにあった。

生い立ち

 はじめ一家は厳しい生活を強いられたようだ。働きづめの父親、たきぎを山から背負っておりる母親の姿が、マルチンの心に焼きついていたらしい。地下で働く鉱夫はやがて地上に出て精錬に従事し、領主から四つの熔鉱炉の認可を得て自営するほどになった。移住して七年目にこのeisenachハンスの名は、町の四つの地区のひとつを代表する市会議員四人の中のひとりとして、町の記録の中に登場してくる。強固な意志と頑健なからだとをもつこの働き者の生き方は、息子マルチンのものでもあった。自分なりに人生を築き上げた父親が、それ以上の階段に向かう人生を息子に期待してもふしぎではない。マルチンが五歳で地元のラテン語学校に行きはじめたというのは、父親の期待を反映しているのだろうか。マルチンはほぼ10年この学校で、中世風の、厳格なばかりで、教育法にも内容にもひどく無頓着な教育を受けてから、マグデブルク、アイゼナハの学校へと送られて、大学教育に向けての準備を受けた。アイゼナハでのコッタ夫人の家の影響や乞食修道士として町を歩くアンハルト公の修道生活の姿が、この時期のマルチンの宗教性に深い印象を与えていることは否定できない。

大学生活

 大学の選択がどのように行なわれたのか、詳しいことはわかっていない。マンスフェルトの町からほぼ同じ距離にあるふたつの町、ライプチヒとエルフルトのふたつの大学のうち、ハンスが息子のためになぜエルフルトを選んだのか、知られていない。「本当に学びたい者はエルフルトに行く」という行きわたった名声のゆえか、それとも「新しい道」と呼ばれる学風がこの大学を支配していたからか。いずれにせよこの大学の選択は、後のマルチンにとって、決して小さくない意味をもつことになった。

 大学生としてのマルチンにそれほど目立った面があったとは思えない。1501年5月に入学して一年半後には、57人中30番で教養学士となり、さらに二年半後には17人中2番で教養学修士となったという記録上のこともさることながら、ルター自身のことばや種々の記録は、当時の平均的な学生生活と、それに従うルターの学生生活の像を、おぼろながら描き出してくれる。修道院にならった学寮生活や陽気な学生生活は、ルター自身について言うと、「哲学者」というあだ名と、ツィタをかき鳴らす陽気さとの二面に表れているのだろうか。
 神学や哲学だけでなく、すべての学問を貫いていた「新しい道」の学風は、後期ノミナリズム(唯名主義)で総称されるが、個への注目、その意志や能力の重視といった面を中心に、後のルターが発展させるべきもの、対決すべきもの、乗りこえるべきものとして、ルターの思想形成の下地を塗ったことは確かである。

修道院入り

 当時は、教養学修士となってはじめて、神、法、医の上級学部への進学が可能となる。マルチンは父親の希望に従って、法学の勉強を始めた。1505年5月のことである。6月の末、どんな理由かはわからないが家に帰った。7月2日大学にもどる途上、あと1キロ半の、シュトッテルンハイムという地点で、ルターは落雷に遭遇した。「聖アンナ様、私は修道士になります」、危急の中で、鉱夫たちの守護聖人アンナを呼びながら、ルターの口から誓願の言葉が発せられた。「誓うように強制された」とルターは感じ、誓った。

erfurt 父親の反対と怒り、友人の引き止めをふり切って、マルチンは、エルフルト市内の数ある修道院の中から、戒律厳守派の聖アウグスティヌス会修道院に入った。近代風の父親のもとで、まことに中世風な修道院入りの道を選んだルターは、後にそこからまったく違った形で出てくるまで、そこを出ることはなかった。

 翌年正式に修道士として受け入れられ、司祭に叙品され、五月、初ミサに寄進を持ってやってきたときにも、ハンスの心がまだ解けていなかったことは、ふと語りかけた息子に、「聖書には『あなたの父母を敬え』と書いてあるのを、おまえは読んだことがないのか」と問い詰めたという事実の中にも表れている。自分ののぼった階段を、さらにのぼりつめていくと期待をかけた息子は、父親ハンスの想像できないところに入って、父親の手からまったく失われた、とその頃のハンスには思えたことであろう。

神学研究へ

 司祭になってから、そのうちの何人かが神学研究をするのが当時のやり方であった。教養学部を終えていたルターはそうした何人かのひとりであった。教養学部でアリストテレスの『ニコマコス倫理学』の講義をしながら、エルフルト、ヴィッテンベルクの神学部での研究が続く。修道会の命を受けて、会の紛争問題にかかわるローマ旅行をはさみながら、おそらく一五一一年の末には、最終的にヴィッテンベルクに移転を終えた。「新しい道」の学風の影響は、神学研究が深まるにつれて大きくなり、それとともに、問いも深まりつつあったことを、当時の資料は示している。その頃、講義を始めた中世の神学教科書、ペトルス・ロンバルドゥスの『神学命題集』への書き込みや、その頃読んだと思われるアウグスティヌス著作選への書き込みは、神学的な断片ながら、そうした彼の状態を知らせる最初の資料である。

神学教授

wittenberg ヴィッテンベルクに移ったルターは神学研究の最終段階へと進んでいった。同時に、修道会の要務も彼を待ち構えていたのだった。ヴィッテンベルク大学は1502年創立の大学であった。この創立間もない大学で、ルターはやがて神学教授のひとりとなる。1512年10月のことである。教授資格取得と神学博士号受領とが、この月に相次ぐ。霊的な父でもあった、ドイツの聖アウグスティヌス会修道会の副総長シュタウピッツの推薦も受けてのことである。すぐに大学で講義を始めたかどうか、記録の上でしかと確認はできない。しかし、ルター自身の晩年の言葉によれば、そのとき彼は「まだ、その認識に到達してはいなかった」という。自ら問いをかかえてはいるが、その問い自体をまだはっきりとはつかみかねており、したがってまだ答えに手をかけるに程遠い29歳の神学教授であった。

 いつ、その認識―宗教改革的認識に到達したのかは、ルター研究の中で未解決の大きな問題のひとつである。それが伝記的に確定されないだけではない。宗教改革的認識とはなんなのか、という初期ルターの思想内容に深くかかわる解釈の問題でもある。認識の内容が確認されれば、初期の資料の中にいつどの時点でそれが登場してくるかを明らかにすればよいわけだが、絡みあった糸を解きほぐすようなものだから、事は決して容易に解決しない。その認識の萌芽が見えた時点をとるか、その認識が彼の思想の中に中心的なものとして位置づけられた時点をとるかでも、解答は違ってくる。しかし、若い神学教授の最初のいくつかの聖書講義が、この問題に対する豊かな資料を提供してくれることは確かである。

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3.宗教改革者となる

第一回詩編講義


 最初のいくつかの講義は、いずれもなんらかの形で、その内容が私たちの手もとに提供されるに至っている。ただ、注目すべきことには、それらの資料がいずれも19世紀末から20世紀はじめにかけて次々と発見されたという事実である。ほぼ400年間、これらはそれぞれのところで古文書の束の中で眠っていたことになる。『ローマ書講義』の場合のように、図書館