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バイブルエッセイ

2018.04

「赦され生かされて、生きる」

201804 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」・・・「このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。(ヨハネによる福音書21章17、19節)

 死者の復活、あってほしいと切に願いつつも、ありえないのがこの世の現実。だから、死を受け入れたくなくても、そうするほかない。すべての終わりとしての死、やり残したことがあっても、やり直したいと願っても人生に終止符が打たれる。赤字決算でも変えられない。これが誰もが経験する人間の宿命。
 しかし、ゴルゴダの丘の上で苦しみと屈辱の果てに絶命し、墓に葬られたその方を、神は「復活させられた」「高く引き上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになった」と聖書は宣言します。代々の教会は「三日目に死人のうちから復活し」と告白します。誰もが最初は信じられなかった出来事を神は起こされたのです。

 この奇想天外な告知が福音である所以は、「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられ」たから。キリストだけでなく「アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになる」からです。つまり、わたしもそうですが、復活させていただくのに値しない罪人である者も含めすべての人が、キリストの復活のゆえに、復活と新しいいのちに与らせていただくようになるというのです。死の束縛から解き放ち、これこそ福音です。

 四つの福音書は、復活は「終わりの時」に完成するけれど、すでに今このときに始まることを語っています。その証人の一人がペトロ。熱血漢で、純朴で、命懸けで主イエスに従っていたのに、あまりにもろく、弱く、無様にも三度否認して裏切り、刑場からも逃げ出すという取り返しのつかない過ちを犯したペトロ。あの三日目の夕方とその一週間後に他の弟子たちと共に復活の主にお会いしたのに、それだけでは驚きはしても、いのちは萎えたまま、生きる力は枯渇したままでした。生ける屍です。

 ヨハネ21章が描いているのは、元の漁師に戻りかけたペトロたちに復活の主がみたび姿を現してくださり、決定的な会話を彼となさった場面です。「ヨハネの子シモン」と親しく呼び掛け、「わたしを愛しているか」と尋ねられます。そうです、その通りです、もちろんご存じでしょう、わたしはあなたを愛しています――ペトロはそう答えます。愛の告白あるいは信仰の告白を三度します。
二人の会話に大変興味深い言葉が用いられています。新共同訳では主イエスの問いは三度とも「愛しているか」であり、ペトロの答えも「愛している」です。

 最新のルター訳ドイツ語聖書でも六つともリーベン(愛する)という訳語が採られています。しかし、ギリシャ語原典ではイエスさまの最初の二回は「アガパオー」という動詞、最後の問いは「フィレオー」で、ペトロの答は三回とも「フィレオー」でした。どちらも「愛する」と訳すことができますが、ここで神の無償の愛アガペーと通じる動詞アガパオーと、友愛フィリアにつながるフィレオーは意図的に区別して使われたのでしょうか。通説は単なる言い換えと見ますが、岩波訳はフィレオーを「ほれこんでいる」と思い切って訳しています。そうならば、この会話でイエスさまは、主が期待されたアガパオーとは違うペトロの愛フィレオーが持つ人間的限界を赦し、受容してくださったのだと、わたしには思えるのです。

 主イエス・キリストはわたしたちの人間的な弱さも罪も十字架と復活で赦し、未だ不十分さを抱えたままの生を受け容れて、新たに生かしてくださいます。「わたしに従いなさい」と招かれます。ここに赦され生かされながら、終末での復活の完成を望みつつ今を生きる新しい信仰者の生き方が可能になります。ペトロは弱さを背負いつつ使徒としての生涯を全うしました。

 わたし自身の69年間の人生、42年間の牧師とされての歳月は、弱さと罪にもかかわらず、赦され生かされて生き、及ばずながら神と教会と人々にご奉仕させていただく恵みに浴した幸いの時でした。十字架と復活は神の愛です。主の力です。ただただ感謝。アーメン

日本福音ルーテル教会 牧師 江藤直純

 

2018.03

「エロイ エロイ レマ サバクタニ」

201803 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である(マルコによる福音書15・33〜

 エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ!この印象的な主の最後の言葉がなぜ原語で採録されたのか。それは、マルコが「これが福音の神髄である」と確信したからである。

 今年はマルコ福音の年。マルコ典礼を奉ずるコプト教会が昨年日本に初めての礼拝堂を開いた。その時の記念礼拝がコプト教会の教皇を迎えて開催された。2時間に及ぶ礼拝は鐘太鼓も含め終始喜びの調べにあふれていた。
 コプト教会は1世紀以来、エジプトでマルコの伝統を伝えている。そのマルコの福音書の1章1節に「神の子の福音の初め」とあり、そして最後の15章39節「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った」とあり、神の子の福音が語られている。「神の子」の福音である。

 コプト教会が今なお多くの殉教者を出しながら、喜びをもって耐え忍んでいるのは、彼らが人間的イエスではなく神の子としてのイエスを信じているからだと思う。しかし、そのマルコが福音書の中では「人の子」イエスを描いているのだ。その子イエスが「神の子」として奉じられる。これが私たちの主イエス・キリストである。

 「人の子」として罪びとの仲間になられた。だが「罪びとの仲間」はまだ罪びと自身ではない。だが、十字架のあの叫びは、神の子が罪びとの一人に数えられた瞬間であった。神に捨てられ独りにされることが神の子における罪びとの標識である。この時のためにイエスの生涯は導かれた。そしてそれが神のご計画であった。神なき世にあって苦しむ人々との一致がこの瞬間に成った。神の子が私のために、もはや正しい事を言われず、ただ、同じ罪人となられた!

 ボンヘッファーは「深いこの世性」と言った。それは「この世の一致」である。これには「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」が絶えず共振している。これによって、垂れ幕が裂け、二つの分裂したものが一つにされた。神と人とが共に生きる地平が開かれた。神の子が罪びととされた絶望のこの叫びによって、教会は仮現説から決別し、真の神の子の告白を選び取った。この世の一致とは罪びとの一致であることがわかった。

 民族、宗教、人種、階級、能力、気質などの異なりを超えて人々を一致へと導く可能性は、それぞれの痛みや苦しみを寄せ合う交わりと連帯にあるのではないか。この点を出発点として全ての人が一致出来る。そしてその一致は神ご自身がその真ん中に立たれる一致である。そのことがイエスの十字架のあの叫びで成就したと、マルコはそう思ってあの叫びを、原語を残しつつ、福音の終わりとして、ローマの百人隊長をして「この人こそ神の子だった」と言わしめ、異邦人を含め全ての神の民を神の子とする福音を語り終えた。

 神が私たちのために罪びととなられたことによって神の堕落論のロックが解除され始動する!絶望は悪魔の分断のしるしから神の恵みのしるしへと変えられた。神の子であるイエスにおいて、義人の矜持という自分をガードする何ものもなくなり、神の恵みが自由に出入りできるようになった。神の子の絶望によって!神の子が罪びととなることによって!罪びとは神的普遍性を獲得した。恵みによってのみ生かされる普遍性である!

 その十字架の叫びから、全ての人間の苦しみを担い支える恵みが磁力線として発せられる。ヒロシマ―ナガサキ―アウシュビッツを経験した人類は、個人の罪に限定された十字架の神学の地平を、苦しむ人々全てと連帯することへと全面的に突破しなければならない。それは苦しむ一人ひとりが、自ら罪びととなって私たちをご自身へと結びつけてくださる方により、蘇る恵みに迎えられたからだ。

 そうして全ての人は一つとされ、神と共に生きる者となる。神の福音はイエスの十字架の「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」から永遠に発せられる光である!
日本福音ルーテル三原教会、福山教会 牧師 谷川卓三

 

2018.02

「恐れからの救い」

201802「その日の夕方になって、イエスは、『向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、『先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか』と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。『なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。』弟子たちは非常に恐れて、『いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか』と互いに言った。」          (マルコによる福音書4・35~41)

「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」これは、2000年前に嵐の中で震えていた人たちに対するイエス様の問いかけです。もしもイエス様が今日、肉体をとって地上に来られるなら、同じ問いがイエス様の口から発せられるでしょう。
 ルイス・ブラウンという学者が、石器時代の原始人について、こう語っています。「はじめに、恐れがありました。恐れは人の心のうちにありました。そして人を支配していたのです。恐れはいつも人を圧倒して、人に安らぐことを赦しませんでした。風の激しいざわめき、雷鳴の轟き、待ち伏せする野獣の唸り声が、人を恐れで揺さぶりました。人の毎日は恐れで塗りつぶされていました。人の世界には危険が充満していました。原始人は、すきま風が吹き込む穴倉で傷を癒しながら、恐れに震えるほかなかったのです。」
 さて、現代人である私たちは、いろいろな面で進歩発展を遂げてきました。快適な家に住み、車に乗り、文化的な生活を送れるようになりました。しかし、それでもなお、古代人と同じように心に恐れと不安を持ちながら生きています。何故なのでしょうか。

 イエス様は、私たちに恐れるな、怖がるなと言われます。イエス様は一人一人が持っている恐れを取り除いてくださる方です。キリスト教は「恐れからの救い」を与えてくれます。

 神さまが救い主の誕生を知らせるために、天使を遣わされましたが、その天使はたった一回だけ説教する機会が与えられました。その説教の言葉が「恐れるな」でした。ルカによる福音書2章10節の言葉です。

 人生の最悪の敵、それは間違った恐れです。しかし、基本的には、恐れは良いことです。神さまは、人間に自らを守るために恐れるという能力を備えてくださいました。愚かな者は恐れるということを知りません。旧約聖書の箴言1章7節に「主を畏れることは知恵の初め」とあります。

 さて、マルコによる福音書4章35節以下を読みますと、イエス様と弟子たちはガリラヤ湖を渡ろうとしていました。すると突然、嵐になり、波が高まって、船に水が入ってきました。彼らは怖くなりました。どうしてでしょうか。彼らは嵐に比べて自分たちの力が小さすぎると思ったのです。それで沈みかけたのです。自分は小さい者だ。自分にはかなわない。その思い、それが、誰もが恐れる理由です。人はいろいろな出来事に出会って恐れと不安と心配をいつも感じながら生活しているものです。どうすれば恐れ・不安から癒されるでしょうか。

 イエス様は「まだ、信じないのか」と言われました。恐れを癒すたった一つの方法、それは「信仰」です。信仰は恐れを取り除いてくれます。しかし、間違ってはなりません。

 この信仰とは、嵐が起こるたびごとに、神を呼び求めると神はすぐ嵐を静めてくださるという意味ではありません。イエス様は、時には波風に向かって「静まれ、黙れ」と言われます。ある時には私たちの状況を変えられることもあります。また別の時には、私たち自身を変えてくださいます。私たちの人生にはいろいろな苦しみ不安、心配などが次から次へと出て来ます。それが自分で解決できない時、舟に乗っている弟子たちのように「先生、私たちが、おぼれてもかまわないのですか」と恐れから不平、不満を神さまに、時には回りの人たちにぶつけてしまうことがあります。

 その時、イエス様は嘆かれます。「なぜ、信仰がないのか」と。イエス様はいつも私たちと共にいてくださる方です。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイによる福音書28章20節)とイエス様は言われます。このみ言葉を信じる信仰が、私たちをすべての恐れから救い、恐れを取り除いてくれるのです。アーメン
日本福音ルーテル日吉教会 牧師 齊藤忠碩 

 

2018.01

「良い地に播かれた種」

201801「イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。『種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て 食べてしまった』」。            
(マタイによる福音書 13・3 ~4)

主イエスは聖書の中で、神の真理を伝えるために、多くの譬え話を語っています。身近な風景あるいは物語によって、一つの神の真理を伝えるのが譬え話です。ですから、大事な中心の真理をきちんと受け止めなければなりません。
 この「種まきの話」の中心的メッセージは何かと言いますと、それは神の国は決して人間の力によるものではなく、神の計り知れない御業により、成長するということです。
 主イエスの言われる『成長』はこの世的な単なる量的拡大ではありません。成長は隠されていたものが明らかに開かれ、現れ、発展していくということです。明らかにされていなかった固有のあり方が神の御業により開かれ、発展していくこと、これが神による成長です。その意味でも、この神の御業と成長は私たちの思いを超えています。ですから、大切なのは、私たちが神のみ業をひたすら素直に受け入れ、心を開くことです。
 この譬えにあるように種はいろいろな所に播かれます。この当時の、バレスチナの種まきの方法は二通りあったと言われています。一つは、種を播く人が畑を行ったりきたりしながら種を撒き散らすやり方です。この場合には、風が吹いていると種は風に乗って四方に運ばれていき、あるものは畑の外に落ちてしまいます。第二の方法は種を入れた袋の角に穴をあけて、それをロバの背に乗せ、袋の種が無くなるまで、畑の中をロバが歩く方法です。こちらの方が一般的な種まきの方法として用いられていたと言われています。
 パレスチナの畑は細長くなっていて、その畑の中を誰もが通れるようになっていました。この聖書の箇所で、「ある種は道端に落ち」とは、人が通る道端は踏み固められ、種が根付きにくくなっていたのです。
 このように種は良い地だけには播かれることは限りません。むしろ、それ以外の所にも播かれるのです。道端や石灰岩が土の下にあるような土地にも、さらに畑の脇の茨の中にも種は風に乗って広域的に播かれます。良い土地に播かれて多くの実を結ぶ種だけをこの譬えは語っているのではありません。むしろ、実を結ばないところに播かれた種についても語っています。

 実を結ぶ種だけでなく、実を結ぶことなく消滅した種も、神のはたらきそのものです。何の成果も上がらない、「休眠状態」と思えるような所にも、神は働いています。たとえ、人間的判断で小さな成果しか挙げられないと思えるような所でも、私たちの思いを越えたものが生まれるのです。とても神の働きがないと思えるような所であったとしても、そこにふさわしい神の実りが備えられていることをこの譬えは語っています。
 神の業は、その働きを真から求めるところで開かれ、生成していくのです。譬えが語る、神の実りがある「良い地」とはこの世的に、物質的に、自然的に何もかも整っている場ということではありません。そうではなく、神を心から求める思いと信仰があるところ、それが「良い地」となるのです。
 ローマの信徒への手紙8章22~23節でパウロはこう言います。
 「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、〝霊〟の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」
 ここでパウロが「体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」と言うように、神を信仰的に自覚的に受け入れる前に、無意識の中にしても、私たちが呻きながらも神を求める思いが信仰の前にあることが大事です。神を求める思いがないところには神のみ業は根付かないとも言えます。
 キリストの教えを受け入れるには、それなりの信仰を求める心がそこになければなりません。そうでなければ、キリストへの信仰も育っていかないのです。ただ、聖書を教えれば信仰が根付くというものではありません。「教える」ことと、「育てる」ことは別です。意識的にせよ、無意識であれ、心動かされた神への問いがあることにより、信仰は私たちの内において、み言葉と共に育つのです。

日本福音ルーテル東京池袋教会 牧師 青田 勇

 

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