ルーテル教会は世界最大のプロテスタント教会であり、伝統的なキリスト教会です。式文(リタジー)を用いて礼拝を行います。

バイブルエッセイ

夢広がる世界、それは・・・


以前、ある地方新聞で面白い記事を読みました。富士山に降った雨が地中を通って平野部で再び地上に湧き出るのに、どれだけの時間がかかっているのか、という研究についての記事です。諸説あって、これが間違いなく正しいという見解は得られていないのだそうですが、たとえば、ある人は、井戸の地下水位の経年変化と御殿場気象観測所における降水量を比較して、二ヶ月ちょっとだと割り出しています。一方、別の人は、地下水に含まれる人工放射性元素トリチウムの濃度変化に視点を当てて分析。結果、二十六年から二十八年と説いています。いやいや、そんなものではない。およそ百年という説をたてている大学教授もおられるそうです。
 そうか。富士山のそばで暮らす人たちのもとで湧き出る水は、ひょっとしたら百年前に降った雨の水かもしれない......。夢のある話ですね。
 さらにその記事が書いていたのは、火山岩の富士山よりも普通の山の方が地下水の流れは遅いのだそうで、その流速は年間1メートル程度だとか。その説ならば、地表に湧き出てくるには山の高さによっては何百年もかかっている。私たちが口にする≪○○山の名水≫は、何時代のものということになるのでしょう。江戸時代、鎌倉時代......? 学術的に見て、これらがどうなのか、わたしには専門的なことは少しもわからないのですが、ただこんなことを考えさせてもらえると、ロマンを味わえますよね。
 星の大好きなA牧師は、あるとき、夜空を見ながら、ひとつの星をさして「あれは二千光年です。つまりイエス様がお生まれになったころの光がいまここに届いて見えているのです」と教えてくださいました。
 ハーッ、もっと凄いスケール!私たちが、今ここで生きているという時に、いったい、どれほど昔からのもの、積み重ねられてきたものが取り巻いているのでしょうか。いえいえ、もっと大きなスケールもあります。
 あなたが生まれるためには、まずひと組の男女(計2人)が結ばれていました。その2人が生まれるためには、さらにふた組の男女、計4人が必要でした。その4人が生まれてくるには四組の男女、計8人が必要でした。その8人が...と続けて、ほんの十世代前までさかのぼってみたら、果たして何人の人がそこに登場するでしょう。なんと百万人を突破します。嘘だと思ったら、ぜひ計算機を片手に試してみてください。そして、もうそれ以上は、8ケタ程度の計算機では割り出せなくなります。あなたというひとりの人が生まれてくるために、どんなに多くの人が関わっているのでしょう。あなたという人が生まれ、生きて行くのに、いったいどれほどの要素が取り巻いていることでしょう。
 そうまでして、あなたという人に生まれてきてほしかったのだ、と神様はおっしゃいます。だって、わたしはあなたが大好きだから、と。富士山からの水よりも、何万光年の星よりも、ずっとずっとスケールが大きくて、夢広がる話。それは、あなたです。 (パパレンジャー)

ページトップへ

心の窓を全開せよ!

あなたがた自身、互いに愛し合うように、神から教えられているからです
心の窓を全開せよ! 日本聖書協会『聖書 新共同訳』第一テサロニケ4章9節

今年も、もう1ヶ月が過ぎました。
 1年の暦の上で最も静かにゆっくりと時間が過ぎていくのは、いま迎えたばかりの2月のように私には思えてなりません。空気は冷たいけれど、どこか地の奥深くから春の振動が感じられ......、まだ冬の真最中だけれども、生活の中に春の色が見え始めている......。

 私が今のアパートに移り住んでから二度目の春を迎えようとしています。西角部屋で、南側には農家の大家さんの畑が広がっていて、寒い寒いと言いつつも、畑には次々と新しい命が芽吹いています。
 そんなある日の夜のことです。仕事から帰って来たら、南側の2枚の窓ガラスそれぞれにひびが入っていたのです。「風で石でも飛んできたのかしら......」「それとも、アパート周辺に集まるカラスのいたずら?」。そのときの私には、そのひびが大して気になることでもなく、むしろその原因を探る方が面白楽しく、すぐに何することもありませんでした。ところが、しばらく経ってそのことを大家さんに伝えると「ひびは気圧のせいかも知れない。だけど、地震でも起きたら危険だから、すぐ取り替えるように」とのことで、次の日、硝子屋に来てもらいました。
 暖房を入れている寒さですから、当然私の部屋で1枚ずつ硝子を交換するのかと思っていたら、窓枠ごと2枚を店に持ち帰って交換してくるとのこと!! その間、硝子戸があった場所がすっぽりと外に向けて四角く抜けた状態になってしまいました。どんなにか自分が悲惨な状況にさらされるのかと思っていたら......「あぁ~、何て素晴らしい眺め! 何て気持ちの良い眺め!」 外の畑の風景が、まるで1枚の絵画の様に、はっきりとくっきりと私の部屋に広がっているのです。それも、何にも邪魔されないで。

 普段、窓を開けていると言っても左右どちらかに硝子戸を重ねている分、風景は半分邪魔されていたのです。「私は、今まで一体何を見ていたのか」「私には、本当に外の風景が見えていたのか」そう思った瞬間、「私は自分を取り巻く人たちのことを、今まで本当に見て来ていたのか」「彼等を正しく見ていたのか」と、急に胸が締め付けられたのでした。

 そのとき、私に届いた言葉は『心の窓を全開せよ!』。
 これによって、初めて相手を正しく見て理解し、相手と本当に出会うことができることを教えられたのでした。
(JUN)

ページトップへ

春、ただいま準備中!

荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ/花を咲かせ/大いに喜んで、声を上げよ。/砂漠はレバノンの栄光を与えられ/カルメルとシャロンの輝きに飾られる。/人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』イザヤ書35章1~2節

  俳句の季語に、「日脚伸ぶ」という言葉があります。冬至を過ぎた頃から少しずつ日が長くなる、それをふと実感できる頃のことを、このように呼ぶのだそうです。
雪の多い北国に住み始めてから、この冬から春にかけての「日脚」の伸びを、本州に住んでいた頃と比べて、より深く感じられるようになりました。
たとえば、元旦の空の明るい日差し。本州に住んでいた幼いころから、元旦の空の色はなんだかいつもと違っているように感じていました。年が改まって、気持ちも新しくなったせいかな、とも思っていましたが、やはりそれだけではなく、明らかに冬至の頃と比べて光の量そのものが変わっているのだということが、北国にいると実感としてわかります。
たとえば、雪かき。雪が積もった早朝、玄関の前の雪を大きなスコップでかいて道を作ります。どんなにスコップで地面をがりがり削ったとしても、日が短い時期はどうしても道の表面に白い氷の層が残ります(これがまた、滑って危ないのです)。けれども、2月を過ぎたあたりから次第に、その残った氷もすぐに溶けてしまうようになり、ついには雪かきをしてもその氷の層は残らなくなる。長くなってきた太陽の光が大地に蓄えられて、日ごとに路温が高まっていくからでしょう。
雪はうず高く積もっているし、気温だってまだまだ氷点下です。肌を刺すような風の厳しさも、変わらないように思えます。しかし私たちが気付かないところで、私たちをとりまく天地は、春に向かって確かに歩みを始めている。終わりが見えないように思える厳しい寒さの中で、それでも見えない地面の下では、春の準備が確かに進められている。寒さが最も厳しいとされる大寒の頃、それでも日ごとに伸びる日脚に「そうか、今は春の準備中か。だったらもう少しだけ、がんばってみてもいいかな」と慰められ、励まされます。
いのちの冬だと思えるような、厳しい現実に置かれるときがあります。すべてが雪に閉ざされてしまったように思えて、出口が見えなくなってしまうときがあります。それでも私たちを支える大地に、確かに春はすでに来ている。私たちがあずかり知らないところで、ひっそり、けれども確実に、春の歩みは進められている。ほら、あなたが気付かないうちに、あなたの足元で、いのちの春はもうすでに、準備を始めてくれていますよ。
Aki

ページトップへ

翼はなくても......

いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』ルカによる福音書2章14節

 12月に入ると、今では日本の街でもクリスマス一色に飾り付けられてゆきます。クリスマスを彩るものには何があるでしょう? モミの木のクリスマスツリー、きらきらと光る星のオーナメント、色とりどりのローソク、そして......そう忘れてならないのは天使たちです。クリスマスはたくさんの天使たちが街を飾る季節でもあります。
 いま私たちが街で目にする天使の多くは、白い服を着て翼があるか、あるいは裸の子どもに羽がついている、そんな姿をしています。そう、天使=翼なのです。だって、絵的にも、天使に翼がなければ、それは、ただの子どもや、ただの人ですから! それぐらい、いま私たちが目にする天使の姿と翼は切り離せません。
 ところが......聖書に書かれたクリスマスの物語はどうでしょうか。実はそこに出てくる天使たちに、翼があったとはどこにも書いていないのです! それどころか、聖書の中に出てくる天使たちのほとんどは、翼のことなんかどこにも書かれていないのです。そう、聖書の中の天使たちは、ただの子どもや、ただの人の姿をしているのです。
 聖書の物語に出てくる天使たちは、いつも突然現れて、そして役目が終わると突然去ってゆきます。天使にとって大事なこと、それは翼があるかどうか、見た目がかわいいかどうかなのでありません。そうではなく、役目あってこその天使なのです。突然に現れて、困っている誰かを助けたり、悩んでいる誰かに言葉をかけたり、悲しんでいる誰かを励ましたり、そしてまた突然に去っていく。それこそが天使なのです。つまり、役目を果たしている時しか天使は登場しないのです。
 「天使」(エンジェル)のもとになった言葉は、もともとは広い意味で「使者」「使い」という意味を持っていました。それがやがて、特に「神の」使いを指すようになっていったのです。だから実は、神の使いとして働く者は、その役目をしている時、誰でもみな「天使」なのです! ただの子ども、ただの人だって、神さまの使いとして働く時、それはもう「天使」なのです!
 だから、天使には本当は翼などいらないのです。誰かのことを思いやる時、誰かの力になろうとする時、私たちは誰でもみんな天使になれるのです。私たちが悲しい時、苦しい時に、声をかけ、助けてくれる人は、その瞬間、誰もがみんな天使なのです。
 救い主が生まれたクリスマス、街を飾る天使を見る時、私たちの誰もが天使になれることを思い出すことができるのです。

ページトップへ

命の息を受けて

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、
その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』創世記2章7節

 教会でオカリナ・コンサートを開きました。演奏者は小児科のお医者さんで、各地でボランティア演奏しておられます。
 ピアノと共に奏でられるオカリナのやわらかな音色に、やさしく心が包まれました。オカリナの音色は人の心と体に優しくなじみます。懐かしさを感じるのは、土で造られているからではないだろうか、ふとそう思いました。土から造られたオカリナに人の息が吹き込まれて、心を癒す澄んだやわらかな音色となるのです。またその構造もシンプルですから、演奏者の息づかいも身近に感じるのです。
 演奏の後、奏者は自作のオカリナを見せてくれました。手製のオカリナはどれも形が異なり、音色も違います。自作のオカリナがよい音色を出すときは、きっとうれしくなることでしょう。
 オカリナと同じように、わたしたち人間も土から造られています。「神は土の塵で人を形づくり......」と聖書は記しています。そして土から造られたという点では人間は他の生き物と変わりません。しかし聖書はその後に、神が「その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」と記しています。「息」は「生きる」に通じます。人は空気を吸って生きるだけでなく、神の息吹を受けていきいきと生きるのです。
 手作りのオカリナが一つひとつ形や音色が異なるように、わたしたちも一人ひとり違っています。ひとりとして同じ人はいません。それはわたしだけが出せる音があり、あなただけにしか出すことができない音色があるということです。わたしたちは神様の大切な手作りの作品です。
 わたしが神の手に握られ、その息を吹き込まれてわたしの音楽を奏でる時、それは神様の喜びとなり、またわたしの喜びとなります。そしてその調べを聴く人々の喜びとなります。
 わたしの心と体の中を、神様の命の息、さわやかな命の風が吹き抜けて、今日も喜びの音を奏でるように、神様の御手に委ね、神様の愛の息吹を胸いっぱいに受け取りましょう。
ジーコ

ページトップへ

ちからなる神は

力を捨てよ、知れ /わたしは神。 
日本聖書協会『聖書 新共同訳』詩編4編40節

 「力なる神は、わが強きやぐら......」。10月31日によく歌われる賛美歌です。10月31日はルーテル教会の誕生日とも言える「宗教改革記念日」。この讃美歌は、宗教改革者マルティン・ルターが1529年に作詞・作曲したものといわれています。メンデルスゾーンの交響曲第五番、作品名「宗教改革」にも、この賛美歌が登場します。
 「力なる神は、わが強きやぐら、悩み、苦しみを防ぎ守り給う」と続く歌詞は、ルターが旧約聖書の詩からインスピレーションを得て、詩人の心を辿るようにして解釈を加えて作ったものです。その詩(『詩編』46)は「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦」と歌い出します。
 聖書の神様はわたしたちの「避けどころ」だと詩人は言うのです。苦しい時の神頼みでいいのです。ひとりがんばる、我を張る必要はないのです。「神様、助けてください」と叫び、そのふところに飛び込むのです。その時、神様は必ず助けてくださいます。
 さらに、「神はわたしたちの砦」です。神様は要塞であり、お城であり、基地であり、補給所なのです。戦いにたとえられる人生ですが、のべつ幕なしに戦い続けることは誰にもできないでしょう。体勢を立て直し、整え、そして時に避難するところが必要です。神様は、その避けどころとなり、砦となって、わたしたちの人生を守り、支え、修復し、導いてくださるのです。
 詩人はさらに、「苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない」と歌います。「決して恐れない」。これが聖書の信仰です。この世界とその歴史を支配しておられる神様が、わたしと共にいてくださるから、恐れないというのです。
 「地が姿を変え / 山々が揺らいで海の中に移るとも / 海の水が騒ぎ、沸き返り / その高ぶるさまに山々が震えるとも」。地震でしょうか。台風、洪水でしょうか。それとも、戦争、暴動、侵略でしょうか。そのすべてかもしれません。これらのことは人生に避けがたく起こります。その中で、私たちは不安にかられ、怯え、恐れます。
 しかし、詩人は続けてこう歌います。「大河とその流れは、神の都に喜びを与える」と。「大河の流れ」、それは変わることのない静けさを意味しています。激動、動揺のただ中にあっても、神様を信頼する者は、なおそこに留まり、恐れないのです。落ち着きと安心があるということです。
 詩人は最後に「力を捨てよ、知れ / わたしは神」という神様の言葉を伝えます。力に憧れ、力を追い求め、力にしがみついてやまないわたしたちが、こう宣言するお方に出会うとき、大河とその流れが示す落ち着きと静けさ、安らぎを取り戻すことができるのです。
M.T

ページトップへ

ありがとう

イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
日本聖書協会『聖書 新共同訳』マルコによる福音書4章40節

ありがとう。何が?
 新しい目覚めはどこから来るの? 今、あなたの周りにいる家族は? あなたの命は?あなたの笑顔は? あなたに与えられていないものなんてどこにあるの? もらった時は何て言う? 「ありがとう」だよね。
 新しい目覚めをありがとうございます、ってさ。毎日言えることってすごいよね。
 末期ガンの父は朝、目覚める度に叫んだ。「うぉー」って。「オレは今日も目覚めたぞ、生きてるぞ」って。
 「明日なんか来なければいい」と思って眠りについた時......。「明日が早く来ないか」と思って眠りについた時......。「どうして......夢ならいいのに」と思う現実の中にいるあなたにも、同じような目覚めが与えられる。かけがえのない今が与えられる。

 もし、1日が悲しみでもなく、怒りの中ででもなく、「ありがとう」で始まるのなら。もしいっぱいの感謝から始まるのなら、どんな1日になるのだろう。
 あなたが出会う一つひとつの全てのものが与えられていることに気付くでしょう。光も風も自然も全てが。1日が感謝で溢れるでしょう。
 こんなことに出会いたくなかった......と目を覆いたくなるような現実も起こるかもしれない。きっと、たった1人だったら逃げたくなる現実がある。
 でもね、あなたは1人じゃないんだよ。共に泣いてくださる方がおられるんだ。あなたのために祈ってくださる方がおられるんだ。
 だから逃げなくていいんだ、ここにいていいんだよ。
 新しい目覚めも、命も全てが与えられている。
 なぜ?
 それはあなただから。
 あなたを信じている方がおられる。あなたを待っている方がおられる。その方は、遥か遠くから手招きしてあなたを大声で呼ぶのではなく、あなたが声にならないうめきでしか叫べないときでも聴こえるくらい近くに、静かにあなたに語りかける声が確かにあなたに感じられるように、魂に寄り添ってくださる。

 だから安心していていい。
 あなた自身が信じられない時があってもあなたは信じられている。あなたが祈れない時があってもあなたは祈られている。
 簡単なことだよ。「ありがとう」って伝えればいいんだ。
 全てのことは、あなたに与えられている。あなたを一番大切にしておられる方から与えられている。あなたを大切にしてくれる方は弱っちい得体の知れないような方じゃない。あなたを大切にしてくださる方は、光も風も自然も全てを創られた方なんだよ。だから安心して。
 あなたは生きてていいんだよ。
  S

ページトップへ

光と影

神よ、天の上に高くいまし栄光を全地に輝かせてください。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』詩編108編6節

 いよいよ、夏本番です! このジリジリと照りつける太陽の日差しが、街路樹の下に鮮明に枝葉の影を映し出しています。
 小学生の時、太陽の動きと影のでき方を観察するという夏休みの理科の宿題がありました。白い紙の上に一本の棒を固定させ、紙に映った棒の影の先端に一時間おきに印を付けていく......。すると、太陽が東から南に移動するに従いその影は短くなり、南から西に移動するにしたがって、また長くなる。そして、最後、その並んだ点を結ぶとなめらかな曲線ができるという昔から当り前のことでも、初めて知った幼い私には、それは大きな発見でした。
 それからだいぶ経って後、赤道直下では太陽が一番高い位置に昇ったとき、それはちょうど私たちの頭の真上にあるために、人の背後に影はできないということも知りました。
 また、小学生のときにこんなことがありました。晴れた日曜日の教会学校で、先生がカーテンを閉めて薄暗くした部屋の中、「これからカーテンを一気に開けますから、何か変化を見つけてください」と。そして、カーテンがサッと開いた瞬間、「わぁっ~、ほこりがいっぱい飛んでいるのが見えるー」と子どもたち。それに対して「部屋が暗いときには、このたくさんの埃は見えなかったけれど、明るくなったら空中に飛んでいるのが良く見えますね」「この光は神様の光です。神様から離れて隠れていても、神様の光が当たると、私たちは、この埃のように全部見えてしまうんですよ」と、先生はお話しされました。
 私たちが神様を遠くに見ている限り、自分の影は長く延びる......。言い換えれば、神様から遠く離れている時は、私たちの心の中に闇が大きく拡がっているのかもしれません。けれども、神様を自分の真上に、近くに見たとき、私たちの影も短くなる。それは、神様が近くにいてくださると信じるときに、私たちの心の中の闇も消されて明るくなっているということではないでしょうか。
 そして、人からは気づかれていない、あるいは知られていないと思っている態度や行為も、神様の眼差し、光が射しこめば一瞬にしてその姿は明らかにされるのです。
夏の日々、太陽の光を全身に浴びるように、神様の光を心いっぱいに受けて元気に輝きましょう!
JUN

ページトップへ

瞳を閉じて

主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』ルカによる福音書11章1節

 「ああ、今日は胃袋がどこにあるのか、わからない!」
 彼女は、うれしそうに言いました。
 彼女は妻の友人。ある日、うちに泊まりに来てくれたときのことでした。せっかく来てくれたのに、彼女はおなかが痛くなって夕飯も一緒にできません。でも、夜ゆっくり休んだおかげで、朝には元気回復。さわやかな顔で起きて来た彼女が言ったセリフが、それでした。
 面白い表現だなぁ、と思いました。確かに痛くもかゆくもない時、自分のからだの中の様子は気になりません。もちろん、どのへんに胃袋があるのかもわかりません。痛み出した時に、ああ、確かにここに胃袋がある、とわかります。病気になって初めて健康のありがたみがわかる、ということと通じるでしょう。

 同じことは、あいつについても言えるかもしれません。
 あいつは内臓器官と違って、そもそも本当に見えません。でも、あいつが痛む時があります。大切な人が苦しんでいるのを見たとき、あいつは痛みます。その時、あいつがあることがわかります。あいつのことを、心と呼ぶこともあり、感情と呼ぶこともあり、気持ちや思いと呼ぶこともあり、魂と呼ぶこともあります。
 きれいなお花を見て、感動できる人を、心が豊かな人なんて言うことがあります。そして、逆の場合を、心貧しい人とか、心ないことをした、などと言います。
 この目では見えないあいつを、確かにそこにある、とわたしたちは自然と見て取っているのですね。この、目には見えないあいつを豊かに育てることができることも、わたしたちは知っています。子どもたちが、しっかり食べて、しっかり運動して、しっかり睡眠をとると、からだが成長していくように、あいつは成長することができます。
 いや、成長という言葉は合わないかもしれません。あいつが安らいだり、落ち着いたりするために、できることがあると言ったほうがいいでしょう。あいつは、からだが栄養を取るように、「わたしにも栄養補給や深呼吸の時間をください」と耳では聞こえない声でよく叫んでいるようです。
 その栄養補給や深呼吸の方法を、ひとつここで紹介しておきます。
 目には見えないあいつに安らぎを与えるためには、やっぱり目を閉じることです。目を閉じてみた時、あいつは、「ようこそ」とわたしたちを迎えてくれます。そして、わたしたちがあいつに安らぎを与えているつもりが、わたしたちがあいつから安らぎを受けるという逆転劇がそこで起こります。
 あいつは、目を閉じたわたしたちを、まだ見ぬ明日を思うことや、ここにはいないあの人のことを静かに思い起こすことや、そして、生きる意味なんていうものまで考えさせてくれながら、再びわたしたちをこの世の見える世界に送り出します。
 その時、世界は少し違って見えます。目をつむって、あいつに、大切なものを見せてもらったおかげで......。栄養を与え、深呼吸させたつもりが、あいつによってわたしが深呼吸させてもらうことになるのです。あいつの魔法です。
 たぶんあいつは、目には見えない神さまへの直通電話を持っていると、わたしは踏んでいます。
パパレンジャー

ページトップへ

伝言、確かに受け取りました

神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行ないによるではなく、御自身の計画と恵みによるのです。
テモテへの手紙二 1章9節(日本聖書協会『聖書 新共同訳』)

  いろいろな年齢の方と伝言ゲームをしたことがあります。
 幼稚園のお友だち。鼓隊の練習をがんばりました。流れてくる音楽に合わせて大太鼓、小太鼓、鉄琴、キーボードを演奏しました。先頭を歩く指揮者もお友だちです。鼓隊の後ろにはバトンのお友だちもいます。おそろいのベレー帽とベストが素敵です。立派にパレードができました。
 その翌日です。「伝言ゲームしようか。初めてだね。まず、先生がみんなの列の先頭さんに言葉を伝えます。先頭さんは、うしろのお友だちのお耳のところで小さい声で伝えてね。そして、いちばんうしろのお友だちは、どういう言葉がまわってきたか覚えていてね」。わたしはお題を出しました。「きのうのパレード、かっこよかったよ」。先頭のお友だちは一生懸命にうしろのお友だちに伝えました。順番が待ちきれない子もいました。すべてのグループが最後まで伝えられました。いちばんうしろのお友だちが聞いた言葉を一緒に言ってもらいました。「きのうのパレード、かっこよかったよ」。みんな、大正解です。

 小学生のお友だち。少し長い文章の伝言ゲームでも大丈夫です。「きのう、隣りのようこちゃんのお庭にアジサイの花が咲きました。ピンク、むらさき、白色の花でした」。多少、聞き間違えて後ろのお友だちに違ったことを伝えるグループもありましたが、大筋は最後まで伝えることができました。

 大学生の学生さんには、絵を書いて伝える伝言ゲームをしました。お題は「カッパ」です。絵本で見たことがあるような、ないようなものです。頭の中でだいたいの形を思い浮かべることができても、実際に紙の上に書いてみると自信がなさそうです。書かれた絵をすぐ後ろの人だけが見ます。「カッパ」の絵であることが伝われば万々歳。けれども、あいまいな記憶の者同士が伝えるものですから、なかなかうまくいきません。とうとう目が強調されていきました。手足が短くなりました。最後の学生さんが書いたのは、「トカゲ」のような絵でした。

 わたしがイエス様のお話を始めて聞いたのは中学生の時です。多分、わたしが聞いたイエス様のお話は、2000年前にユダヤで人々が経験したことと同じだと思います。イエス様のお話は『聖書』に記されました。『聖書』の言葉は時代を越え、国を越えて伝えられました。2000年前の出来事が今、わたしの心に届けられています。とても不思議です。
 わたしの心に確かに届けられました。「神様はわたしを愛してくださっている」ということを。
M。

ページトップへ

1  2