ルーテル教会は世界最大のプロテスタント教会であり、伝統的なキリスト教会です。式文(リタジー)を用いて礼拝を行います。

バイブルエッセイ

2012年のバイブルエッセイ一覧

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「幸せの方程式」


『祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている〝霊〟について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、〝霊〟がまだ降っていなかったからである。』
(ヨハネによる福音書7章37~39節)

主の聖霊降臨を、心よりお喜び申し上げます。

 『見ているだけで/何も描けずに/一日が終わった/そういう日と/大きな事をやりとげた日と/同じ価値を見いだせる/心になりたい』
 これは星野富弘さんの作品です。どのような状況にあっても、すべてが神様の祝福として、また恵みとして受け止めたいという星野さんの信仰が伝わって来ます。

 ペンテコステ(聖霊降臨)を境に、イエスの弟子たちは、雨が降っても風が吹いても、すべてが神様の祝福として、同じ価値を見出せる心を持って歩み始めました。
 このペンテコステについては、使徒言行録の二章で、一同が集まっているとき、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、炎のような舌が分かれ分かれに現れて、一人ひとりの上に留まった。そのときみんなは聖霊に満たされ、異なるさまざまの言語を持つ人々の言葉の壁を越え、意志疎通が出来たと記されています。その霊というのが、本日の聖書の「イエスを信じる人々が受けようとしている『霊』」のことであり、思想、民族を越えてイエスを信じる者から、「生きた水が川となって流れ出る」と言われることなのです。

 ところで、イエスが、「......その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」という言葉を発した背景ですが、聖書には、祭の終わりの日とあります。この祭とは、仮庵祭と呼ばれるイスラエルの三大祭のひとつで、ぶどう、いちじくなどの秋の収穫を感謝する祭りです。またイスラエルの暦では、年末に当たり、新しい年も豊かな年であることを祈るもので、間もなくやって来る雨季に際して雨が多くもたらされることを祈願したのでした。ゼカリヤ書一四章一六~一七節には、仮庵祭を祝うのに、エルサレムに上って来ない者には、雨が与えられないとまで言われています。ですから、仮庵祭は、ユダヤ人にとって水をもたらす特別の意味を持っていたのです。
 かつて、モーセに率いられたイスラエルの民が、「なぜ、我々をエジプトから導き出したのか。わたしも子供たちも、渇きで殺すためではないのか」と、モーセに迫った時、主の示されたホレブの岩を杖で打つと、そこから水が出てイスラエルの民は救われたことがありました。以来、イスラエルの民にとっての水は、まさに主から与えられたものであり、どのような状況に置かれても主は導き、命である水を与えられるという確かさとなりました。その彼らに、今、イエスは、「生きた水」、それもただの「水」ではなく、あえて「生きた水」が流れると言われるのです。
 また、イエスがサマリアの町に来られた時のことです。丁度昼時で、イエスは旅に疲れ、ヤコブの井戸のそばに座っていました。そこに水を汲みにサマリアの女が来ました。喉が渇いていたイエスは彼女に水を一杯飲ませて欲しいと願ったことがありました。そして、ヤコブの井戸の水を飲む者はだれでもまた渇くが、イエスご自身が与える水を飲む者は決して渇くことはなく、「その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言われました。イエスが、「生きた水」と言われるのは、それはとりもなおさず、「永遠の命にいたる水」なのです。
 そして、ここで大切なのは、「生きた水」と「信じる」が、一つになっているということです。イエスを信じることをとおしてのみ生きた水が私たちに与えられるということです。水は絶え間なく流れていなければ澱んできますし、腐ってしまうことになります。しかし、イエスを信じるということと結びついて初めて「生きた水」となるのです。イエスが共にいてくださることによって、「生きた水」となるのです。

 人はしばしば、幸せになる人生の方程式があればと願います。もしそうならば、どのような状況に置かれても、その方程式どおりにすれば、幸せになれるはずです。星野富弘さんの冒頭の詩のように、自分が受け入れ難い季節を迎えても、それは神様がそなえて下さったこととして、受け入れ、すべてを神さまに任せる、これが幸せの方程式と言えましょう。弟子たちがすべてを信じ、すべてを委ねて歩み始めたのが、ペンテコステ(聖霊降臨)です。この日、イエスの弟子たちに、「聖霊」が与えられたのです。そして、新たに聖霊をとおして、「生きた水」が流れ出るようになったのです。ご一緒に、聖霊の導きを覚えつつ感謝をもって、過ごしてまいりましょう。
   蒲田教会牧師           渡邉純幸

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「新しくされたあなたに、おめでとう!」


兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。コリントの信徒への手紙一 15章1〜5節


イースターおめでとうございます。こちらブラジルでは、イースター(復活祭)を、「パスコア(Pascoa)」と言います。チョコレート製の「オーボ・デ・パスコア(イースターエッグ)」がスーパーで鈴なりにぶら下げられて売られています。5cm位から30 cmのもので、割ると中にもチョコがたくさん入っていて、二重の喜びを味わうことができます。
 死んだ石ころのような冷たい殻を破って愛くるしいひよこが生まれ出てくるように、キリストの死の悲しみを蹴破り、新しい命が出てくることをお祝いします。
 ブラジルではカルナバルの大騒ぎが終わって、四旬節の慎ましい期間が始まります。お肉の売り上げが落ち、バカリャウ(鱈の塩漬けの干物)が積み上げられ売られます。この期間、お肉やお酒をいただかないで、日常を悔い改めるという方々にも出会います。街の通りでは、クワレズマ(ポルトガル語で「四旬節」の意)の並木が、みごとな紫色の花を咲かせます。神様も、この季節にこの色の花を咲かせ、心静かな悔い改めという準備を迫っておられます。
私達はどんな準備、どんな神様との対話を日々しているでしょうか?
 私はブラジルに遣わされて3年になります。今までと違った体験や祈りをさせられます。机の上の話し合いや書類、予算書だけではなくて、祈りながら体当たりをしなければ渡れない川辺に今まで以上に立たされるように思います。静かに考え、祈るようにさせられました。教会のことでも、人生でも、話し合いで結論を出すことや議論で勝つことではなくて、困難でも神様のみ心があるなら、取り組み、祈り、ひたすら待つことを教えらました。眠れないような不安や絶望の、もう一つ向こうで神様に出会うことができるように思います。新しい地で、新しいことに取り組み、自分に足りないことを教えてくださる神様に感謝します。

 困難に出会う時、自分の小ささを思い知らされます。しかし、そこでどう思うかで、結果は違います。「ああだめだ、いつもこうだ」とふさぎ込むか、信仰と希望を持って進むかです。ただ頑張ることは限界があります。絶望するけれど、安心するということが大切です。「キリストが私達のために十字架に掛かり、復活してくださったから」という聖書の言葉と、「あの時もそうだったから、今度も神様が動かしてくれるはず」という自分の神様との体験がそうさせてくれるのです。不思議な安心感です。その福音の言葉を私達は受け入れ、「生活のよりどころにする」ことが、道を切り開くのです。
 あなたは、どんな事柄を抱え、どんな祈りを持っていますか?
 今年の初めに、ブラジルの有名な「弓場農場」を訪ねました。もとはキリスト教中心の自給自足の農業共同生活を続けている、日系社会です。そこで、多くを感じました。
食料もほぼ自給自足で、家具やお茶碗なども作っています。私も、お茶碗やコーヒーカップを買い求めてきました。釜の隣の部屋の棚から、出来るだけ綺麗で、形や高さの整ったものを選びました。しかし、最後まで気になるカップがありました。棚の下にまとめておいてあった、曲がったカップたちです。私は最後にそれも一つ買ってきました。
毎朝、朝食でそのコーヒーカップを使うことにしました。朝の忙しいひとときですが、それでコーヒーを飲み、自分の足りなさや不完全さを思う時間になります。「神から見れば、罪人の私達は曲がった失敗作かも知れない。自分も弱いところ、曲がったところ、とがったところがある。でも赦され、生かされている。用いられている」と、食事をしながら瞑想できるのです。心の中で静かに祈って始める一日。そこに新しい一日、新しい自分の命があると思うのです。
 皆さんもそんな朝を始めませんか? 復活のキリストに出会い、新しいいのちに与る生活を始められるでしょう。神様からの多くの祝福を見ることができるでしょう。
 復活祭、おめでとうございます。そして、新しくされたあなたに、おめでとうございます。

ブラジル/サンパウロ教会
       徳弘浩隆

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「驚くべき十字架」


《人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。》マルコによる福音書10章45節

聖書は、神の子イエス・キリストが、この私たちに仕えるために来られたことを宣言致します。これは何と驚くべき言葉でしょうか。父なる神さまとご一緒に、この世界を造られた、またこの世界をご支配しておられる神の子が、あの人の子イエス・キリストが、こんなちっぽけで、罪深く、「思うように生きられない」と嘆くしかない私たちに仕えてくださる、実に主はそのためにきてくださったと語られているのです。
 しかし、果たして本当に私たちは、この言葉に
驚きを覚えているでしょうか。どこかこの驚きを見失ってしまっている私たちがいるのではないでしょうか。では何故驚くことが出来なくなってしまっているのか。それは、主の言葉に従い得ていないからです。もっと言えば、主を見習って生きてはいないからです。この御言葉の前にはこんな言葉がある。「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」。そして、なぜならば、と上記の御言葉が続くのです。私たちがこの主のお言葉に驚き得なくなっているのは、どこかで主に仕えられることを「当たり前」のこととして受け取っているからではないでしょうか。「仕える」ことの困難さは、実際に「仕え」て見なければ分からないのです。主が私たちにお仕えくださったように、私たちも実際に人に仕えてみる。その時に、初めて分かる。人に「仕える」ということが如何に困難であるか、ということを。しかもそれは、いつも自分たちに好意的な人物に仕えることを意味するのではないのです。感謝もされない。むしろ疎んじられたり、「やって当たり前」とばかりに、わがままで自分勝手なことばかりを要求するような人にも仕える。怒りが込み上げてくる。理不尽さに泣けてくる。文句や不平などを「ぐっ」と押し殺しながら、唇を噛み締めながら「仕える」ということだって起こってくる。しかしそれは、私たち愛に乏しい欠けだらけの弱い人間だからであって、神さまやイエスさまはそうではない、と思われるかも知れない。しかし私は、「神さまだから平気だ」「イエスさまだから平気だ」と考えるのは間違っているとも思うのです。罪に対しても、人の悪に対しても、私たちの方が遥かに鈍感なのです。ある意味、同じ罪人同士として、同じ穴のむじなとして、「しかたがないよね」とばかりに物わかりの良ささえも持ち合わせていたりする。そうではなくて、私たちと同じ人でありながら罪を犯したことのない神の子が、私たちに仕えてくださるのです。罪人同士でもない、同じ穴のむじなでもない神の子が、罪人の私たちに仕えてくださる。自分勝手で、わがままで、感謝もせず、常に不平不満を言うような、どうしようもない私たちに仕えてくださる。それが十字架なのです。決して「当たり前」のことが起こったのではないのです。罪に対する激しい怒り、決して赦せないというご自身の思いに徹底的にぶつかって、それでも赦すことを、愛することを徹底的に選び取ってくださった。ご自身の命を私たちの身代金として差し出すほどに、私たちに仕えてくださった。そんな十字架の出来事だからこそ、「驚く」のです。こんな私(たち)のために、どうしてここまでしてくださるのか、と「驚く」のです。それが「多くの人の身代金として自分の命を献げ」てくださった主イエスのお姿に他ならないからです。
 十字架の出来事は決して分かりきった自明の出来事ではないのです。「どうしてそこまで」というまことに不可思議な「驚く」べき出来事なのです。私たちは主のご受難と復活に向かうこのレントのとき、もう一度この新鮮な「驚き」を取り戻す歩みをしたいと思うのです。また事実、この「驚く」べき出来事が、この私(たち)の上に既に起こっている、ということを信じていきたいと思うのです。

清水教会・小鹿教会牧師       浅野直樹

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「讃美の声を高らかに」


《主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす光、あなたの民イスラエルの誉れです》
ルカによる福音書2章29節~32節

 数年前の式文の学びの際、講師の方が「式文を用いる礼拝だと、毎回毎回同じことの繰り返しのようにお感じになるかもしれません。しかし、二つとして同じ礼拝はありません。なぜなら、その時、その空間、その礼拝に集められた一人ひとりと、そこで働く神さまの聖霊はそこだけのものだからです。つまりライブです。 派遣の部で私たちは、シメオンの賛歌を共に歌い、またそれぞれの日常に神さまから遣わされてゆきます。もしかしたら、この礼拝が最後になる方もおられるかもしれません。ですから、この賛歌を共に歌うとき、俯いていたり悲しい顔をしているよりも、幼子イエスを胸に抱いて喜びに溢れていたシメオンのように、顔を上げて、喜びを生き生きと表すように歌うとよいのではないでしょうか・・・。」と、言われていたことを思い出します。 それ以降、司式者として立たせていただく際には、可能な限り向かい合っている会衆すべての人のお顔を見るようにしています。そして、待ち望んでいたメシアを胸に抱いて喜びに満たされているシメオンの気持ちに思いを馳せ、私の魂も喜び祝い、暗い顔ではなく喜びに満ちた顔でいられるようにと祈りながら・・・。 けれども時には心が沈む時、落ち着かないこともあります。それでも顔をあげ、会衆と一体となって神さまを讃美するとき、不思議と深い慰めと力を得るように感じています。
 神さまが、小さな乳飲み子として救い主をお与えになった理由は、子どもが持っている無邪気さや天真爛漫さ、沢山の可能性を秘めた未来への希望がある、というだけではありません。小さな赤ん坊という姿は、誰かの力を借りなければ決して命をつなぐことのできない無力そのもの。主はもっとも大いなる力を持っておられるにも関わらず、自らの力を行使することを放棄して、人間の手にその身を委ねられました。それは、この腕にかかる重み、ぬくもりを通して私たちが、今この腕の中に納まるほどに小さくなられた神さまの愛の重み、恵みの温もりを知るためにほかなりません。
 幼子を抱き神さまの約束が果たされたことを実感すると、シメオンはもうこの世に思い残すことはないと言います。神さまの約束に希望を持って待ち続けていた万感の思いが魂からあふれ出ているのです。また、アンナも同じく、幼子イエスと出会えた喜びに包まれて、神への賛美をささげた後、エルサレムの人々にこの嬉しい知らせを告げました。救い主と出会えた人々は、その喜びを自分の中だけにとどめておくことができなかったのです。
 では、私たちはどうでしょう? 福音を伝える喜びや感謝にあふれているでしょうか。見渡してみれば、私たちが生かされている現実は嘆きや呻きの耐えない社会。希望が見え辛く、不条理なことや悲しい出来事が絶えないと思えるような日々の積み重ねのように感じられます。耳に聞こえてくるのは、「神がいるというのであれば、なぜこのようなことが起こるのか」というような、怒りや不安、疑いの声の方が多く、喜んで受け入れられるどころか、怪しまれ拒絶されそうな気配すらあります。そのようなところに、「私たちの救い主は確かにおられる」と証し続けることは、簡単なことではありません。
 しかし、一週間の営みを終え、それぞれの場所から礼拝に集められる私たちは、まず共に罪の告白を行うように促され赦しを与えられます。そして、御言葉と聖餐の恵みによって福音を分かち合い、新たな力を注がれます。派遣の部にあるシメオンの賛歌は、再びそれぞれの生活の場へと散らされてゆく私たちに、「あなたは喜びに満たされた者である」ということを示してくれているように思います。
 罪人である私の上にも、また罪人の群れである教会の上にも救い主の光は輝いています。そしてこの光は、失われることのない希望でもあります。この希望の内に生かされている私たちは、讃美の声を高らかに告げる者であり続けましょう。
日本福音ルーテル札幌教会・恵み野教会牧師  岡田薫

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