ルーテル教会は世界最大のプロテスタント教会であり、伝統的なキリスト教会です。式文(リタジー)を用いて礼拝を行います。

バイブルエッセイ

「讃美の声を高らかに」


《主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす光、あなたの民イスラエルの誉れです》
ルカによる福音書2章29節~32節

 数年前の式文の学びの際、講師の方が「式文を用いる礼拝だと、毎回毎回同じことの繰り返しのようにお感じになるかもしれません。しかし、二つとして同じ礼拝はありません。なぜなら、その時、その空間、その礼拝に集められた一人ひとりと、そこで働く神さまの聖霊はそこだけのものだからです。つまりライブです。 派遣の部で私たちは、シメオンの賛歌を共に歌い、またそれぞれの日常に神さまから遣わされてゆきます。もしかしたら、この礼拝が最後になる方もおられるかもしれません。ですから、この賛歌を共に歌うとき、俯いていたり悲しい顔をしているよりも、幼子イエスを胸に抱いて喜びに溢れていたシメオンのように、顔を上げて、喜びを生き生きと表すように歌うとよいのではないでしょうか・・・。」と、言われていたことを思い出します。 それ以降、司式者として立たせていただく際には、可能な限り向かい合っている会衆すべての人のお顔を見るようにしています。そして、待ち望んでいたメシアを胸に抱いて喜びに満たされているシメオンの気持ちに思いを馳せ、私の魂も喜び祝い、暗い顔ではなく喜びに満ちた顔でいられるようにと祈りながら・・・。 けれども時には心が沈む時、落ち着かないこともあります。それでも顔をあげ、会衆と一体となって神さまを讃美するとき、不思議と深い慰めと力を得るように感じています。
 神さまが、小さな乳飲み子として救い主をお与えになった理由は、子どもが持っている無邪気さや天真爛漫さ、沢山の可能性を秘めた未来への希望がある、というだけではありません。小さな赤ん坊という姿は、誰かの力を借りなければ決して命をつなぐことのできない無力そのもの。主はもっとも大いなる力を持っておられるにも関わらず、自らの力を行使することを放棄して、人間の手にその身を委ねられました。それは、この腕にかかる重み、ぬくもりを通して私たちが、今この腕の中に納まるほどに小さくなられた神さまの愛の重み、恵みの温もりを知るためにほかなりません。
 幼子を抱き神さまの約束が果たされたことを実感すると、シメオンはもうこの世に思い残すことはないと言います。神さまの約束に希望を持って待ち続けていた万感の思いが魂からあふれ出ているのです。また、アンナも同じく、幼子イエスと出会えた喜びに包まれて、神への賛美をささげた後、エルサレムの人々にこの嬉しい知らせを告げました。救い主と出会えた人々は、その喜びを自分の中だけにとどめておくことができなかったのです。
 では、私たちはどうでしょう? 福音を伝える喜びや感謝にあふれているでしょうか。見渡してみれば、私たちが生かされている現実は嘆きや呻きの耐えない社会。希望が見え辛く、不条理なことや悲しい出来事が絶えないと思えるような日々の積み重ねのように感じられます。耳に聞こえてくるのは、「神がいるというのであれば、なぜこのようなことが起こるのか」というような、怒りや不安、疑いの声の方が多く、喜んで受け入れられるどころか、怪しまれ拒絶されそうな気配すらあります。そのようなところに、「私たちの救い主は確かにおられる」と証し続けることは、簡単なことではありません。
 しかし、一週間の営みを終え、それぞれの場所から礼拝に集められる私たちは、まず共に罪の告白を行うように促され赦しを与えられます。そして、御言葉と聖餐の恵みによって福音を分かち合い、新たな力を注がれます。派遣の部にあるシメオンの賛歌は、再びそれぞれの生活の場へと散らされてゆく私たちに、「あなたは喜びに満たされた者である」ということを示してくれているように思います。
 罪人である私の上にも、また罪人の群れである教会の上にも救い主の光は輝いています。そしてこの光は、失われることのない希望でもあります。この希望の内に生かされている私たちは、讃美の声を高らかに告げる者であり続けましょう。
日本福音ルーテル札幌教会・恵み野教会牧師  岡田薫

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喜びと純粋な心をもって、共に


使徒言行録2章44−47節には、草創期のキリスト教会の姿(キリスト教共同体の姿)が記されています。「信じた者たちはみな同じ場所に居て、一切を共有していた。また財産や所有物を売って、必要とする者がいれば、それを誰にでも分けた。また思いを一つにして毎日神殿に居つづけ、また家ではパンを割き、喜びと純粋な心をもって食事を共にし、神を讃美し、民のすべての者たちに好まれていた。主は救われる者を日々一緒に加えて下さった」(田川健三訳著『新約聖書 訳と註 2下 使徒行伝』作品社)。
 ここに記されていることが、どこまで史実であるのかは分かりません。なかでも、キリスト教会の人たちが、「民のすべての者たちに好まれていた」ということは事実ではなかったでしょう。というのも、キリスト教会の人たちは、「民」によって十字架の刑に処されたばかりのイエスをメシアとして信じる人たち、だったからです。ここに描かれているのは、使徒言行録の著者ルカが、四十数年前の草創期のキリスト教会を想像しつつ描いた「理想化」した姿なのでしょう。
 しかし、ここに描かれている教会の姿がたとえ仮説的なものだとしても、「民のすべての者たちに好まれる」教会とはそのような教会である、ということに私たちは同意することができるのではないでしょうか。
 さて、草創期のキリスト教会のメンバーがどのような人たちであったのか、ルカは記していません。ここでは、そこに集う人たちが、どのような社会における境遇の人であるか、階級上の地位や社会的身分がどのような人であるか、その人がどれだけ生まれつきの資産や能力を備え、知性、体力を有しているか、そのようなことが注意深く取り除かれています。そしてその上で、ルカは、全員が神の前に同じ状況に置かれているということを、「一切を共有していた」という一言で表そうとしたのではないでしょうか。どんな人も生まれのめぐり合わせや社会的な情況のよしあしによって当人の有利・不利が左右されない、それによって当人の優劣は決まらない状態、それを「(人々が)一切を共有していた」状態である、と。また、「(人々が)一切を共有していた」ということは、人々は「一切を共有すること」に合意していた、ということす。つまり、全員が神の前に公平である、そのことに合意した人たちによってキリスト教会は出発している、とルカは描くのです。
 そして、全員が神の前に公平であるという状態に合意した共同体であるがゆえに、人々は、それぞれの能力は個人のものではなく、共同体の共有財産であると考えたのでしょう。だから人々は、それぞれの能力によって得た「財産や所有物」を、「必要とする者がいれば、それを誰にでも分けた」のです。ここには、分け与える者と施しを受ける者、強者と弱者という境目がありません。このような共同体だからこそ、「民のすべての者たちに好まれていた」のです。このことに、私たちも、ルカとともに同意したいと思います。そして、その同意から現実の問題に向き合っていきたい、と。
 ところで、ジャン・バニエは「あなたは輝いている」(一麦出版社)という著書の中で、次のように言っています。『ルネ・ルノワールは、彼の著書「除外されたもの(The Outsiders)」の中で、カナダの先住民の若者のことを書いています。20人の子どものグループに対して、質問に最初に答えられた子に賞品をあげると約束して「フランスの首都はどこですか?」と聞きました。子どもたちはみんなで話し合ってから、声をそろえて「パリ!」と叫んだのです。なぜそんなことをしたのでしょうか。その理由は、賞品をもらえるのは20分の1の確率で、一人しかもらえないからです。そして誰か一人が賞品をもらえば、その人はもうコミュニティの一員ではなくなってしまうのが分かっていたからです。勝った人は他の人より上位に立ってしまうのです。私たちが生活する豊かな社会では、多くの人が賞を得る代わりにコミュニティや連帯の意識を失っています。より貧しい国では賞を得ることはありませんが、連帯感を保っていられます』。
 私たちの日本福音ルーテル教会が、「喜びと純粋な心をもって」、よりいっそう連帯感を深めていくことができますように。そして主が・・・。


日本福音ルーテル門司教会・八幡教会  岩切雄太

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「今わたしは主の救いを」


主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。
わたしはこの目であなたの救いを見たからです。  ルカによる福音書2章29~30節

広島県にはエリザベト音楽大学という学校があります。この「エリザベト」は、聖書に出てくる女性のエリサベトに由来しています。すなわち、ルカ福音書の初めにある降誕物語で、洗礼者ヨハネの母となった女性、そして主イエスの母であるマリアと縁戚関係にあった女性がエリサベトでした。
 アドベント・クリスマスの季節、必ずと言ってよいほど読まれるルカの降誕物語ですが、その全体、つまり1章の初めから2章の終わりまでを通読してみるのもお勧めかもしれません。
 そうすると、ここには五人の主要人物が登場していることが分かるでしょう。登場順に挙げるなら、ザカリア、エリサベト、マリア、シメオン、アンナです。そして、大変興味深いことは、マリアを除く全員が高齢者であることです。たとえば女預言者アンナは、「夫に死に別れ、八十四歳になって(2章37節)」いました。
 これに対してマリアはおそらく十代の女性だったでしょう。日本の童謡にも〝十五で姐(ねえ)やは嫁に行き〟とあるように、婚約も結婚も適齢期でした。世代的に考えるなら、4人の高齢者たちにとってマリアは孫娘みたいな存在ですね。
 それからもうひとつ興味深いことは、この4人が全員エルサレム神殿関係者だったことです。ザカリアは祭司で、その妻エリサベトも祭司の家系(アロン家)に属していました。また、メシアの降誕を待望していた信仰篤い老人シメオンも神殿の中でマリアたちと出会っています。アンナに至っては、「神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた(2章37節)」と書かれているほどです。
 ルカ福音書を読んで驚かされることのひとつは、この福音書が旧約聖書の香りに満ちていることです。そのことは、その降誕物語についても言えるでしょう。たとえば、「ザカリアの預言(1章)」、「マリアの賛歌(1章)」や「シメオンの賛歌(2章)」に、私たちは旧約のみ言葉の響きを十分聞き取ることが出来るのです。
 さて、降誕物語のひとつの主題は〝新旧の交代〟であると言えないでしょうか。シメオンの賛歌「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます」は、幼子イエスを腕に抱いた時に湧き出た感激でした。彼はもう何の後顧の憂いもなくこの世を去ってゆけるのでした。ところで、「お言葉どおり」と述べたシメオンの確信は、「今これから起きようとしている新しいことは、もうすでに起きていたことである」というものではなかったでしょうか。それは彼の長い人生を振り返って断言できることだったはずです。
 〝新旧の交代〟、それは私たちの教会にもあてはまる言葉かも知れません。教会には、マリアの世代により近い方もおられるでしょうし、エリサベトやシメオンに近い方もおられることでしょう。〝後顧の憂いなく〟は、どちらの世代にとっても大切なことです。そしてその根拠を求めるなら、「これから起きること」と「すでに起きたこと」ががっしり手を握り合うことではないでしょうか。
 ところで、降誕物語の4人の高齢者たちは旧約聖書の世界を代表し、マリアは新約聖書の先駆け的存在となっていました。物語はこの〝新旧〟が親しく笑みを交わしながら進行してゆきます。そして、それがそのまま聖書のクリスマスだったのでした。
 イエスの言葉にも「神は天地創造の初めから(マルコ福音書10章6節)」というのがあるように、神の創造の目的からクリスマスを考えてみる。そのような作業もぜひお勧めしたいと思う次第です。

三原教会・福山教会牧師 白髭 義

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「勝利者キリスト」

これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。 ヨハネによる福音書16章33節

全聖徒の日は、それぞれの信徒がその所属している教会において、すでに天に帰られた信仰の先輩方を憶え、その先輩方と共に礼拝を守る日とされています。わたしたちは、「聖徒」という言葉を、どのように理解しているでしょうか。礼拝を守り、主の御言葉に聴き従って、いつもよく祈る信徒のことを聖徒というのでしょうか。それとも、困難に直面しても、いやな顔をせずに喜んで奉仕する人のことを聖徒というのでしょうか。わたしたちは洗礼を受けて、神の子とされました。神の子とされたわたしたちは、だれ一人の例外もなく、皆聖徒であって、すでに天に帰られた信仰の先輩方とわたしたちとを合わせて、「全聖徒」といいます。全聖徒が、共に礼拝を守る意義を考えたいと思います。
 本日、わたしたちに与えられたヨハネ福音書には、「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と記されています。わたしたちの悩み、苦しみ、悲しみは、主イエスがみずから味わわれたものです。わたしたちと同じように、貧しさ、飢え、渇き、あざけり、裏切り、孤独などの試練に会われ、この世の憂いと無縁でなかった主イエスは、わたしたちの弱さを思いやることの出来ない方ではありません。わたしたちのすべてをご存知である主の前において、わたしたちは自分の弱さを取り繕う必要などありません。そのことが、わたしたちの平安につながっています。わたしたちのすべてをご存知であるお方が、「あなたがたには、世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」と語られました。主イエスは、苦難が待ち受けているこの世に、わたしたちが出て行く勇気を与えようとされました。それに加えて、わたしたちと共に汗を流し、悩み、苦しみ、わたしたちの重荷を背負おうとされました。それなのにどうして、わたしたちが元気をなくして沈み込んでおられるでしょうか。
 ところで、魚に食べられた預言者ヨナの話は有名です。ヨナは、「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」という神の言葉を聞きました。ニネベは、敵国アッシリアの都でした。神はニネベに行って、彼らの罪を示せとヨナに命じられました。しかし彼は、神の言葉に従わないで、ニネベとは反対方向にあるタルシシュに逃れようと船出しました。ヨナ書の二章には、魚の腹の中でヨナが神に祈ったことが記されています。神よりもこの世の現実を恐れ、神に背を向けて逃げ出したヨナでした。彼は海の中に投げ込まれ、魚の腹の中に閉じ込められて、絶望するしかありませんでした。しかし彼は、絶体絶命の崖っぷちから祈ることを赦されていました。ヨナは、祈りの最後に「救いは主にこそある」と祈っています。これこそ、神に背を向け、自分自身に絶望した者にしか分からない、主の恵みではないでしょうか。本来、わたしたちは神に顔を向け、口を開くことさえふさわしくない弱い者です。しかし、神はご自分の独り子をこの世に送り、十字架につけて、わたしたちの罪を償ってくださいました。この神の愛ゆえに、わたしたちは悩み、苦しみ、悲しみの中にあっても、貧しさ、飢え、渇き、あざけり、裏切り、孤独などの試練にあっても、「救いは、勝利者キリストにある」と祈ることができます。
 先に、「全聖徒が、本日共に礼拝を守る意義を考えたい」と述べました。わたしたちは、この世との戦いにおいて、多くの試練を味わいます。時には、神よりもこの世の現実を恐れたヨナのように、神に背いて絶望を経験することもあります。信仰の先輩方も、試練にさらされ希望をなくされたこともあったことでしょう。しかし、この世における人生の最後まで信仰を守り抜いて、天に凱旋されました。人の行う地上での業が、どんなに大きなものであったとしても、それがただ自分のためのものであるならば、肉体の死とともに跡形もなく、むなしく消えてしまうでしょう。全聖徒は、勝利者キリストを信じる信仰において、永遠のいのちが与えられ、共にキリストの再臨を待つ、信仰と希望と愛に生きています。肉体の死がすべての終わりではないことを、信仰の先輩方を思い起こして確かなものにするのが、全聖徒主日の礼拝を守る意義ではないでしょうか。救いは、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と宣言された、キリストにあります。主の愛と憐れみに、感謝と讃美をささげたいと思います。
 
 宮崎教会牧師
        木下 理 

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「私たちの戻るべき教え」


イエスは言われた。「婦人よ、私を信じなさい。あなた方が、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは、知っているものを礼拝する。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
ヨハネによる福音書4章21〜23節

十月はルーテル教会にとっては、宗教改革を覚える月です。「宗教改革」という呼び方に慣れ親しんでいる私たちですが、なぜ「宗教改革」と呼ぶのか、その理由は曖昧です。
 英語ではリフォメーション(reformation)ですが、リ(re)には、「再び」とか、「新たに」ということに加えて、「...し直す」、あるいは「...し戻す」という意味があります。ここから察すれば、宗教改革とは、今の姿を省み、本来あるべき姿へと戻るための改革ということになるでしょう。
 ルターを中心とした宗教改革者たちの第一の主張は、聖書に戻るということでした。教会、そして信仰者の本来あるべき姿は、聖書に、すなわちイエス・キリストの教えにあると確信したからです。ルターは、十週間で新約聖書のギリシャ語をドイツ語へと翻訳するという離れ業をやってのけましたが、聖書への揺るぎない確信があったから成し得たことでした。
 ルターの時代から五百年を経ようとしている私たちですが、宗教改革の精神を毎年この時期に覚えることは意義深いことです。私たちも聖書に立ち返り、そこにある本来の姿に戻るのです。
そのひとつとして礼拝を考えて見ましょう。礼拝は、教会生活や信仰歴の長い者にとっては、「いちいち説明されなくても分かってますよ」と言いたくなるほどのもので、キリスト者にとって自明なものです。
 では今日私たちが「礼拝」を論じる時に、真っ先に口にし、議論することはどんなことでしょうか。「礼拝の人数をいかに増やすか」、さらには「礼拝がどうすれば楽しくなるか」とばかりに、創意工夫に興味を向け勝ちです。確かにそのようなことを議論することも必要でしょう。しかし、それが第一に論じるべきことでしょうか。そこで、イエスが礼拝についてどう教えられたのか、聖書に戻るのです。
 サマリアの女とイエスの間で礼拝のことが話題となりました。サマリヤの女は礼拝すべき場所に拘り、ユダヤ人たちもエルサレムの神殿での礼拝やそれに伴う仕来りを第一に問題にしていたのです。
 でもここでの話は、私たちとさして変わらないように思えます。先に述べたことの続きですが、礼拝を語る時に、大きな礼拝堂、立派なオルガン、たくさんの人数がいる場所での礼拝が、「本当の礼拝」とか「目標とする礼拝」になっていないでしょうか。礼拝の形式が気になり、十字架を首に下げたり、十字を繰り返し切ることも重要な仕来たりとなっていないでしょうか。
 しかしイエスの教えでは、「まことの礼拝」とはそうではありませんでした。イエスとサマリアの女の二人だけの礼拝です。オルガンも式文もなく、礼拝堂もありません。井戸端でしたが、マルタのように食事の世話に心を奪われることなく、女はイエスの教えにただ聞き入り、本当に心を響かせたのです。私たちには「何と寂しい礼拝だろうか」感じられますが、それを指してイエスは、「今、まことの礼拝をしている」と言われたのです。この言葉が孤独な女を励まし、力強い証し人へと変えたのです。
 「霊と真理をもって父を礼拝する時が来る」という言葉は、霊と真理を私たち自らが持っているかのような響きが拭えません。「霊と真理の中で」(ルター訳)が相応しいと思います。霊と真理は神様のものです。少ない人数であっても、サマリアの女のように独りぼっちであっても、霊と真理の中に生かされていることを信じて、イエスの教えに聞き入り、心を響かせる。ここに「まことの礼拝」が実現しているのです。
 礼拝の歌声は大人数で歌う方が荘厳で、祝福に満たされた思いに浸れることは確かなことです。しかし、私たちの思いや感覚を超えた教えがここには響いています。私たちの教会が真っ先に戻るべき「まことの礼拝」を大切にしたいと思うのです。
 東京池袋教会牧師   立山忠浩

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「雑草のしぶとさ」


イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」
マタイによる福音書13章31~32節

「クロガラシは、イスラエルではかなりの高さにまで成長するアブラナ科の一年草で二メートルくらいはある」廣部千恵子著『新聖書植物図鑑』からの引用です。聖書に出てくる「からし種」が、どんな植物の種かということには、議論もあるようですが、それが、一年草であり、栽培種というよりも、むしろ雑草に近いものであったことは確かのようです。

 プリニウスの『自然誌』によれば、「火のような辛さのあるからし菜はとても強い野菜で、水や肥料をやらなくても勝手に育って勝手に種をまき散らしてはびこっていく。そのため、農民はからし菜が自分の畑に生えてくるのを恐れていた」のだそうです。わざわざ植えたり育てたりしなくても、野原に行けば、いくらでも摘んでくることのできるような草、堂々とした大木というよりは、高々二メートルの大ぶりの雑草、そのようなものとしてカラシの木は存在します。
 聖書の中には、もっと天の国にふさわしい木がありそうです。たとえば、ダニエル書四章七節以下には、「大地の真ん中に、一本の木が生えていた。大きな木であった」と書かれており、この木は、「その木陰に野の獣は宿り/その枝に空の鳥は巣を作り/生き物はみな、この木によって食べ物を得た」とされています。また、エゼキエル書三一章三節以下では、エジプトを喩えて、「糸杉、レバノンの杉だ」と語られていますが、この木は、「その丈は野のすべての木より高くなり・・・中略・・・大枝には空のすべての鳥が巣を作り/若枝の下では野のすべての獣が子を産み/多くの国民が皆、その木陰に住んだ」と言わる程、巨大なものです。
 それにもかかわらず、イエス様は、天の国を、一年で枯れてしまう、高々二メートルほどの雑草に喩えられました。この喩え方の中に、雑草のしぶとさという隠れたテーマが浮かび上がってくるような気がします。カラシ種は、すぐ枯れてしまう植物ですが、空の鳥に媒介され、その小さな種を広い範囲に撒き散らし続けます。そして、たとえ、その年の草がすべて枯れ果てたとしても、翌年も、また次の年も、そこいら中に、新しい芽をふき、根を張り、実を結び続けるのです。それは、実にしぶとく、世の移り変わりにも耐えて、広がり続けていく、息の長い神の支配、そうも喩えは語っているのではないでしょうか。

 ひるがえって、「人口の一%にも満たない」と常々、嘆きをともなって語られる日本伝道の現状について目を向けてみましょう。そもそも、「にも満たない」という後ろ向きのマイナスイメージが問題です。雑草の種は、たとえ枯れ果てたとしても、翌年、また次の年と、しぶとくはえかわって生き続けていきます。人口の一%、百人に一人もあれば十分とも言えるのです。雑草の強さとは、生きる強さです。栽培種の野菜であれば、たとえば、曲がったきゅうりは出荷できないというように、存在それ自体よりも、その外見や内容に左右されてその存在意義が問われるのですが、雑草にはそのような区別はありません。たとえ捻じ曲がって生えていても、生きていさえすればそれは雑草としての存在を主張するのです。
 大部分の種は、「良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった」(マタイ福音書一三章八節)と書かれています。しかし、その歩みは、決して一筋縄でいかないものだろうと思います。時には捻じ曲がり、時には見失い、よれよれに曲がって、それでも生きていく、そういう信仰だってあって良いはずです。

 日本のような多宗教社会において、キリスト教というものの純粋さを追求する必要のあったことはわかります。ただあまりにも純血を求め、崇高な精神性にばかり依拠してきたところに、日本キリスト教の弱さも、また垣間見えるのです。主イエスは、天の国をカラシダネに喩えられました。その雑草的強さをも含めて。この事も覚えながら歩んで行きたいと思うのです。

   小岩教会牧師  松田繁雄

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「何も備えない備え」

『帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。』(マタイ福音書一〇章九~一〇節)

《旅の支度》皆さんは旅に出る時、どのように支度をされますか。私はよく山登りに行きましたが、何を持って行くか直前まで迷いました。登りたい山を想って山行計画を立て、どの季節がいいか選び、いよいよ実行に移します。命を託すかも知れない道具は、夏山から冬山までいろいろ持っていました。ハイキング、山小屋泊り、テント暮らしの縦走など、季節により装備が全く違います。それらの道具からどれを持って行くか、山で過ごすイメージを描きながら、ひとつひとつ取り出して並べます。せっかく選んでパッキングしていくと、リュックサックに納まらないと気づきます。持ち物を減らしリュックサックのサイズを替えて、やっと準備が終わると出発の朝になっています。大切な旅であればあるほど、その支度には手間と時間が必要になります。

《何も備えない備え》ところで、主イエスは弟子たちに派遣の説教で、旅支度に条件をつけます。お金も着替えも、履物や武器となる杖も、何も持って行くなと命じます。許されるのは我身一つだけです。さらに食べ物は働きによって、人々から提供されると告げます。当時の人々は宣教者を扶養する義務があったようで、一コリント九:一四にこのように記されています。「主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。」

 彼らが物を持たないから、袋も必要ないと言います。つまり、無一文で着の身着のまま、町や村に入れば同じ家に泊り続ける、それが主イエスの派遣のやり方です。何もない備え、何も必要としない備えと言えます。主イエスは弟子たちに、敢えて「何も備えない備え」を与えられました。現代に生きる私たちは、文明の利器に囲まれて暮らしています。私たちが弟子の立場に置かれたなら、丸裸にされたように不安を感じることでしょう。

 主イエスが弟子たちから取り除かれたのは、外からもたらされる思い煩いです。何を食べ、何を飲み、何を着ようか、彼らはそれらの悩みから解かれます。「何も備えない備え」に、弟子たちが主に委ねる姿を見る思いがします。彼らにとって、送り出した主イエスが彼らの拠り所とされました。

《何もない所から始まる》主イエスが弟子たちに命じる「何も持って行くな」とは、人間の思いと力の尽きたところから、宣教が開始されると言われているのではないでしょうか。弟子たちにとって「ないない尽し」こそが、彼らの宣教の最良の備えになります。なぜなら、弟子たちの無防備で平和な姿は、相手の警戒心を解き放ちます。頭侘袋(ずたぶくろ)がないので貰った物を持ち帰らず、利得に関心を持ちません。ですから、周到な準備に頼らず本気で相手と向き合う、それが主イエスの与える備えです。もし彼らの言葉が足りないなら、父の霊が代わって語ってくれます。人間の力と知恵が尽きた所から、主は介入され助けてくれます。

《弟子の最後尾に連なる》主イエスが弟子たちを派遣した目的は、失われた羊のような民を憐れんだからです。憐れむと訳された言葉は、主イエスに使われるギリシア語の動詞「スプラングニゾマイ」で、腸(はらわた)が千切れるほどに相手の痛みを我が身に感じることです。民の苦しみを放っておけなくなり、弟子たちを働き手として送り出しました。

 弟子たちに向けられた派遣の説教は、キリスト者とされた私たちにも語られています。なぜなら、私たちも彼らの最後尾に連なる一人だからです。私たちがただ独りで勝手に宣教しなさい、と言われているのではありません。私たちにその能力はありませんが、主が本当に必要なものを備えられます。飼主のいない羊のところに行って、福音を宣べ伝えるチャンスが来ています。さあ、ご一緒に宣教の旅に出立しましょう。

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「聖霊と悪霊」


イエス様は、聖霊を誤解することは赦されないと言われました。パウロもコリントの信徒への手紙一10章で、聖霊と悪霊を区別できないなら人は悪霊に仕えると述べました。またマルチン・ルターも聖霊と悪霊は同じところで同じように働くと言い注意を与えました。マルチン・ルターが聖霊と悪霊は同じところで同じように働くと語ったその場所は3つあります。1つ目は、罪において。2つ目は、死において。3つ目は、地獄・黄泉においてです。ではその違いを学びましょう。

 まず、罪において働く聖霊と悪霊の違いです。罪はどの人の中にもあります。そして、生きているかぎり人が自分の罪から離れることはありません。しかし、悪霊は、自分には罪がないと思わせます。また、信仰があれば人は罪の問題から自由になれると教えます。こうして、罪が見えないようにされ、人は日ごと自分の罪を深くし、信仰を希望のしるしではなく絶望のしるしにします。人は信仰があってもなくても最期まで「肉」という存在です。人は最期まで罪の力と一つです。ですから、罪と完全に一体である人間を罪から救うために、聖霊はその人を罪と共に燃やし、焼き尽くし、滅ぼします。そして、すべてが燃え尽きた灰の中から、神さまが最初に造られた部分を取り出します。だから、その方法に賛同して、自分から炎の中に飛び込む者を聖霊は助けてくれます。その炎の中で滅びるのは罪であって人ではありません。聖霊は人にそうさせ、自分の中に飛び込みなさいと教えます。しかし、悪霊は人にそうさせないよう、そうすればあなたとあなたの家族は滅びると教え、飛び込まないでよい方法を教えます。

 次に、死において働く聖霊と悪霊の違いを学びましょう。死は塩と同じです。利きすぎると人の人生を駄目にします。しかし、塩気が全然ないとその人の人生にしまりがありません。ちょうど良い塩加減がその人の人生を豊かにします。聖霊の導きは、それがどんなに危険に満ちたものであっても、最期には人を希望に至らせます。しかし、悪霊の導きは、最初、いかにも素晴らしいものに見えます。一見、安全で、美しく、快適です。しかし、最期は人を絶望に至らせます。悪霊は人に死を見せながら上手に働きかけ、人の人生は結局無駄なように見せ、様々な美しい希望と約束を持ち出し、人を上手に絶望へと導きます。死はこの世で避けられないものの一つです。ですから、避けられないものを避けようとすると人は避けられるはずのものが避けられなくなります。それで聖霊は、死がどんなに人を脅し、人の目をくらませても、それから目を逸らさず、それに対して目を開くようにとうながします。そして、神さまの力がそこでどう働くのかを教えます。聖霊はあなたの救いはその中にあると死に対して目を開かせ、悪霊は救いなど見なくてもあなたは大丈夫だと死に対して目をふさぎます。

 最後に、黄泉すなわち地獄において働きかける聖霊と悪霊の違いを学びましょう。人は、自分がまだ生きているなら、黄泉・地獄は自分とは関係ないと思っています。そして、自分の人生を自分の手で勝ち取るように、死んだ後の世界も自分の手で勝ち取れると考えています。しかし、その人の目の前に、これからその人が行くことになる黄泉・地獄が、すでに生き地獄として現れていることには目を向けません。人は地獄はあの世にある。また、それをみずから作り出しているのに「神さまはどこにおられる」とそれを神さまのせいにします。しかし、それがこの世のどこにあって、どこから生み出され、地獄の住人とはいったい誰なのか、それを一番よく知っておられるのが神さまです。そして、この世界でそれと戦われ、それに勝たれたのはイエス様だけでした。人は、その方なしに、地獄すなわちこの世との戦いに勝つことはできません。悪霊は、この世との戦いに自分は自分の力で勝てると考え、信じている人を見つけたなら喜んでその人のそばに行き、その人の友だちになり、この世のすべてを教え、その人を自分の僕にします。しかし、聖霊は、自分の知恵と力と信仰でこの世に勝てると考えている人は地獄の子として放っておき、もはや自分の知恵・力・信仰ではこの世に勝てないと悟り、生き地獄のようなこの世のことで絶望している人を見つけたなら、喜んでその人に近づき、あなたは十字架の前で滅びるが、キリストがあなたの勝利となってくださると言って、その人を悪霊と罪と共に、この世のすべてを焼き尽くす炎の中に飛び込ませます。こうして、人は悪霊から解放され、聖霊に仕えます。わたしたちの信仰はいつもこの二つの戦いの中にあります。
 広島教会牧師 山田浩己

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「不安のきわみで歩き出す」

 
渡邉純幸議長、松木傑牧師、LWF特別アドバイザーのマタイさんと共に、4月18日から21日かけて車で東日本大震災の被災地である仙台、石巻、気仙沼、陸前高田を訪ねました。津波ですべての建物が全壊した地域に入った時は、何度も途中、車を降り、道路の真中に立ち、お互いに声も交わすことが出来ずに身の震えを内に感じました。
 このような災害は「天罰」ではないかという不穏な言葉を吐いてしまった人もいましたが、今回の未曾有の大地震をどのように理解してよいのかという戸惑いを多くの人が持っているのではないでしょうか。
 このヨハネ福音書9章でイエスは生まれつきの目の見えない人をいやしています。イエスの癒しの前に、弟子たちはイエスに「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と問うています。
 弟子たちがイエスに問いかけた言葉、これは「応報説」というものです。私たちの身に降りかかる不幸、苦しみ、病気などは神に対して何か悪いことをした不義のゆえに、神からの応報的な罰として与えられるという考えです。
 今から、30年前の、昭和52(1977)年11月15日夕刻、中学校一年生の横田めぐみさんが、新潟市の中学校から帰宅する途中で拉致されました。横田めぐみさんのお母さんである早紀江さんは、めぐみさんが居なくなって7年が経った1984年5月に、バプテスト教会の宣教師であるマク・ダニエル宣教師からキリスト教の洗礼を受けています。
  彼女は1999年に日本福音クルセードが発行している機関紙にめぐみさんを失ってからの辛い日々のことをこのように書いています。
 「それからは、大変な捜索となりました。新潟県警始まって以来のヘリコプター、巡視船まで出た捜索活動が、毎日続けられました。私たちは、失神しそうになりながら、ポスターを全国に貼り、またテレビの呼びかけ番組にも4度出演し、少しでも似た少女の写真や絵を見かけるとすぐに問い合わせたり、出かけたり、本当に気が狂ってしまうような毎日でした。」「ですが、どんなにしても何一つ手がかりがなく、目撃者もなく、一ヶ月、半年、一年と時だけが過ぎて、私はただ打ちひしがれ、虚しさだけが心に満ちてくるばかりでした。」「主人や息子たちが勤めや学校に出かけた後は、悲しみがどっと押し寄せてまいりました。こんなに悲しい目にどうして合うのでしょうか。どうすれば立ち上がれるのか。どんなに号泣してみても、息も止まれと止めてみても、悲しい朝はやってきます」。
 さらに、ある人々、ことに宗教的な匂いを持っている人が冷たい言葉を投げかけ、それにより惑わされた辛い日々の気持ちをこう綴っています。「『子供は親の鏡、親の全てを現します。』とか『因果応報』とか、いろんな宗教の人が来て、悲しい心に突き刺さるような言葉を残していきました。私は祖先に思いを馳せて、誠実で質素な温かい父母を思い、泣きました。」
 そのような涙に暮れる日々を送っていた時に、娘と同学年のお母さんのとの出会いが与えられます。その時の心境を早紀江さんはこう書いています。「あまりに悲しむ私に、クリスチャンの友は聖書の言葉で励ましてくださいました。生まれつきの目の見えない人を見て、イエスの弟子がその理由を聞きますとイエスは次のように答えられました。初めて聞く不思議な言葉でした。『この人が罪をおかしたのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。』という新約聖書 ヨハネの福音書9章3節に触れました。」
 彼女は旧約聖書ヨブ記1章21節の「私は裸で母の胎からでた。また、裸で私はかしこに帰ろう。 主は与え、主は取られる。」という言葉にはじめて出会ったときに、「始めて深呼吸ができ、久しぶりに空気がおいしく思えました」と語っています。
 また、「人知の及ばないところにある神の存在は、この世の悲しみ、苦しみ、すべてのことを飲み込んでおられるのだ。私の悲しい人生も、人間という小さな者には介入できない問題なのだ。聖書は私にそう語りかけてくるようでした。」と書いています(「めぐみ、お母さんがきっと助けてあげる」草思社)。
 私たちにとって誰もが願うことは幸福です。でも、予期せぬ試練と苦難の中にあっても人生に対する新たな希望と意義が見出されることもあるのです。そして、苦難を苦難としてそれなりに耐え忍ぶところに真の信仰が与えられ、そこから神に出会い、真の喜びへと導かれることにもなるのです。
副議長 青田 勇

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「あの方は復活なさったのだ」


ルカによる福音書23章26節〜24章11節
春先、あるご高齢の方が召天されました。葬儀の際、ご家族が介護をしていた時の様子が思い返されました。「お父さん」と声をかけ、顔をさすり、手を握る。その時と同じように、丁寧に葬りをされる様子を見た時、悲しみに秘められた「新しき命」の萌芽を見るような思いでした。十字架と復活の間に、イエスを愛していた人々は何をしていたのでしょうか。詩人ウェンデル・ベリーは、イエスの死を嘆き、葬りの準備をする「婦人たち」に復活への道筋を見ています。

〝私は十字架のキリストを知っている。
肉体と時間と私たちの苦悩のすべてのために御自身を犠牲にされた
神の独り子を。
彼は死んで甦られた。
しかし彼の痛み、孤独、死に際の真昼の闇に、だれが打ち震えないでいられるだろうか。
マリアのように、彼は死んだものとあきらめて、その墓で嘆き悲しむことがないなら、復活の朝は永遠に来ない。〟

 十字架の出来事には、マグダラのマリヤ、ヨハナ、ヤコブの母マリアなど「婦人たち」と呼ばれている一群がいました。2000年前のキリスト証言の大事なところをこの人たちの素朴な行為が担っています。「嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った」(23・27)と印象深くルカは記します。イエスが息を引き取られる時、「遠くに立って、これらのことを見」(23・49)、イエスの遺体が納められる有様を「見届け」(23・55)、「家に帰って、香料と香油を準備した」(24・56)。葬りの準備をし、墓場に行き、「空の墓」体験をした人たちであり、「死んで葬られる」イエスに伴ったのはこの人たちでした。そこに最初の復活の知らせが刻まれます、「なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」(24・6)。イエスの十字架を嘆き悲しんだのは弟子たちも同じですが、その嘆きは同じものだったのでしょうか。自分を嘆いていたのか。イエスの死を嘆いていたのか。いずれにせよ、十字架のイエスと「婦人たち」との距離は、弟子たちのそれと比べ、とても近いものでした。
 生きているイエスを熱烈に歓迎し、従うものは多くおりました。魅力あるもの、未来あるもの、何かを実現してくれる力に人は惹かれます。しかし「死んで葬られる」イエスに伴うものは多くはありませんでした。十字架は無意味で、復活の知らせが「たわ言」(24・11)のようであったのは、生きているイエスだけが大切であり、死んで葬られたイエスは、弟子たちであっても、置き去りにするしかないものだったのかもしれません。しかし十字架のイエスに伴い、看取り、葬りの備えをする人たちが求めていたのは、意味ではなく、愛です。
 もし人が、日々をただ朝が来て、ただ日が沈む繰り返しではなく、復活の希望と共に朝を迎えるならば、その真昼の闇でさえも、どんなに貴いものであったかを知らされもすると詩人はうたいます。この「婦人たち」にまっさきに良き知らせが伝えられたのは偶然ではありません。復活はただ死んだものが生き返ったという時計の針の巻き戻しではなかったのです。当たり前のように、生まれて朽ちていくという染み付いた考えが、崩れ去る時でもあるのです。復活の知らせは、私たちが生まれる前も、生きて死んだその後も、永遠の命が神の許にある、という良きおとずれなのです。ルカが伝える「婦人たち」の葬りの備えは、知らず知らずに、復活の備えでもあったのです。死がすべての終わりではなく、新しい命のはじまりであると。終わりからはじまる。痛みにふるえ、孤独と闇を共にし、途方にくれることは、永遠のいのちと切り離されてはいないのです。どうして生きておられる方を死者のなかに探すのか。あの方は復活なさったのだ!
博多教会牧師 宮本  新

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