ルーテル教会は世界最大のプロテスタント教会であり、伝統的なキリスト教会です。式文(リタジー)を用いて礼拝を行います。

バイブルエッセイ

翼はなくても......

いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』ルカによる福音書2章14節

 12月に入ると、今では日本の街でもクリスマス一色に飾り付けられてゆきます。クリスマスを彩るものには何があるでしょう? モミの木のクリスマスツリー、きらきらと光る星のオーナメント、色とりどりのローソク、そして......そう忘れてならないのは天使たちです。クリスマスはたくさんの天使たちが街を飾る季節でもあります。
 いま私たちが街で目にする天使の多くは、白い服を着て翼があるか、あるいは裸の子どもに羽がついている、そんな姿をしています。そう、天使=翼なのです。だって、絵的にも、天使に翼がなければ、それは、ただの子どもや、ただの人ですから! それぐらい、いま私たちが目にする天使の姿と翼は切り離せません。
 ところが......聖書に書かれたクリスマスの物語はどうでしょうか。実はそこに出てくる天使たちに、翼があったとはどこにも書いていないのです! それどころか、聖書の中に出てくる天使たちのほとんどは、翼のことなんかどこにも書かれていないのです。そう、聖書の中の天使たちは、ただの子どもや、ただの人の姿をしているのです。
 聖書の物語に出てくる天使たちは、いつも突然現れて、そして役目が終わると突然去ってゆきます。天使にとって大事なこと、それは翼があるかどうか、見た目がかわいいかどうかなのでありません。そうではなく、役目あってこその天使なのです。突然に現れて、困っている誰かを助けたり、悩んでいる誰かに言葉をかけたり、悲しんでいる誰かを励ましたり、そしてまた突然に去っていく。それこそが天使なのです。つまり、役目を果たしている時しか天使は登場しないのです。
 「天使」(エンジェル)のもとになった言葉は、もともとは広い意味で「使者」「使い」という意味を持っていました。それがやがて、特に「神の」使いを指すようになっていったのです。だから実は、神の使いとして働く者は、その役目をしている時、誰でもみな「天使」なのです! ただの子ども、ただの人だって、神さまの使いとして働く時、それはもう「天使」なのです!
 だから、天使には本当は翼などいらないのです。誰かのことを思いやる時、誰かの力になろうとする時、私たちは誰でもみんな天使になれるのです。私たちが悲しい時、苦しい時に、声をかけ、助けてくれる人は、その瞬間、誰もがみんな天使なのです。
 救い主が生まれたクリスマス、街を飾る天使を見る時、私たちの誰もが天使になれることを思い出すことができるのです。

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命の息を受けて

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、
その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』創世記2章7節

 教会でオカリナ・コンサートを開きました。演奏者は小児科のお医者さんで、各地でボランティア演奏しておられます。
 ピアノと共に奏でられるオカリナのやわらかな音色に、やさしく心が包まれました。オカリナの音色は人の心と体に優しくなじみます。懐かしさを感じるのは、土で造られているからではないだろうか、ふとそう思いました。土から造られたオカリナに人の息が吹き込まれて、心を癒す澄んだやわらかな音色となるのです。またその構造もシンプルですから、演奏者の息づかいも身近に感じるのです。
 演奏の後、奏者は自作のオカリナを見せてくれました。手製のオカリナはどれも形が異なり、音色も違います。自作のオカリナがよい音色を出すときは、きっとうれしくなることでしょう。
 オカリナと同じように、わたしたち人間も土から造られています。「神は土の塵で人を形づくり......」と聖書は記しています。そして土から造られたという点では人間は他の生き物と変わりません。しかし聖書はその後に、神が「その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」と記しています。「息」は「生きる」に通じます。人は空気を吸って生きるだけでなく、神の息吹を受けていきいきと生きるのです。
 手作りのオカリナが一つひとつ形や音色が異なるように、わたしたちも一人ひとり違っています。ひとりとして同じ人はいません。それはわたしだけが出せる音があり、あなただけにしか出すことができない音色があるということです。わたしたちは神様の大切な手作りの作品です。
 わたしが神の手に握られ、その息を吹き込まれてわたしの音楽を奏でる時、それは神様の喜びとなり、またわたしの喜びとなります。そしてその調べを聴く人々の喜びとなります。
 わたしの心と体の中を、神様の命の息、さわやかな命の風が吹き抜けて、今日も喜びの音を奏でるように、神様の御手に委ね、神様の愛の息吹を胸いっぱいに受け取りましょう。
ジーコ

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ちからなる神は

力を捨てよ、知れ /わたしは神。 
日本聖書協会『聖書 新共同訳』詩編4編40節

 「力なる神は、わが強きやぐら......」。10月31日によく歌われる賛美歌です。10月31日はルーテル教会の誕生日とも言える「宗教改革記念日」。この讃美歌は、宗教改革者マルティン・ルターが1529年に作詞・作曲したものといわれています。メンデルスゾーンの交響曲第五番、作品名「宗教改革」にも、この賛美歌が登場します。
 「力なる神は、わが強きやぐら、悩み、苦しみを防ぎ守り給う」と続く歌詞は、ルターが旧約聖書の詩からインスピレーションを得て、詩人の心を辿るようにして解釈を加えて作ったものです。その詩(『詩編』46)は「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦」と歌い出します。
 聖書の神様はわたしたちの「避けどころ」だと詩人は言うのです。苦しい時の神頼みでいいのです。ひとりがんばる、我を張る必要はないのです。「神様、助けてください」と叫び、そのふところに飛び込むのです。その時、神様は必ず助けてくださいます。
 さらに、「神はわたしたちの砦」です。神様は要塞であり、お城であり、基地であり、補給所なのです。戦いにたとえられる人生ですが、のべつ幕なしに戦い続けることは誰にもできないでしょう。体勢を立て直し、整え、そして時に避難するところが必要です。神様は、その避けどころとなり、砦となって、わたしたちの人生を守り、支え、修復し、導いてくださるのです。
 詩人はさらに、「苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない」と歌います。「決して恐れない」。これが聖書の信仰です。この世界とその歴史を支配しておられる神様が、わたしと共にいてくださるから、恐れないというのです。
 「地が姿を変え / 山々が揺らいで海の中に移るとも / 海の水が騒ぎ、沸き返り / その高ぶるさまに山々が震えるとも」。地震でしょうか。台風、洪水でしょうか。それとも、戦争、暴動、侵略でしょうか。そのすべてかもしれません。これらのことは人生に避けがたく起こります。その中で、私たちは不安にかられ、怯え、恐れます。
 しかし、詩人は続けてこう歌います。「大河とその流れは、神の都に喜びを与える」と。「大河の流れ」、それは変わることのない静けさを意味しています。激動、動揺のただ中にあっても、神様を信頼する者は、なおそこに留まり、恐れないのです。落ち着きと安心があるということです。
 詩人は最後に「力を捨てよ、知れ / わたしは神」という神様の言葉を伝えます。力に憧れ、力を追い求め、力にしがみついてやまないわたしたちが、こう宣言するお方に出会うとき、大河とその流れが示す落ち着きと静けさ、安らぎを取り戻すことができるのです。
M.T

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ありがとう

イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
日本聖書協会『聖書 新共同訳』マルコによる福音書4章40節

ありがとう。何が?
 新しい目覚めはどこから来るの? 今、あなたの周りにいる家族は? あなたの命は?あなたの笑顔は? あなたに与えられていないものなんてどこにあるの? もらった時は何て言う? 「ありがとう」だよね。
 新しい目覚めをありがとうございます、ってさ。毎日言えることってすごいよね。
 末期ガンの父は朝、目覚める度に叫んだ。「うぉー」って。「オレは今日も目覚めたぞ、生きてるぞ」って。
 「明日なんか来なければいい」と思って眠りについた時......。「明日が早く来ないか」と思って眠りについた時......。「どうして......夢ならいいのに」と思う現実の中にいるあなたにも、同じような目覚めが与えられる。かけがえのない今が与えられる。

 もし、1日が悲しみでもなく、怒りの中ででもなく、「ありがとう」で始まるのなら。もしいっぱいの感謝から始まるのなら、どんな1日になるのだろう。
 あなたが出会う一つひとつの全てのものが与えられていることに気付くでしょう。光も風も自然も全てが。1日が感謝で溢れるでしょう。
 こんなことに出会いたくなかった......と目を覆いたくなるような現実も起こるかもしれない。きっと、たった1人だったら逃げたくなる現実がある。
 でもね、あなたは1人じゃないんだよ。共に泣いてくださる方がおられるんだ。あなたのために祈ってくださる方がおられるんだ。
 だから逃げなくていいんだ、ここにいていいんだよ。
 新しい目覚めも、命も全てが与えられている。
 なぜ?
 それはあなただから。
 あなたを信じている方がおられる。あなたを待っている方がおられる。その方は、遥か遠くから手招きしてあなたを大声で呼ぶのではなく、あなたが声にならないうめきでしか叫べないときでも聴こえるくらい近くに、静かにあなたに語りかける声が確かにあなたに感じられるように、魂に寄り添ってくださる。

 だから安心していていい。
 あなた自身が信じられない時があってもあなたは信じられている。あなたが祈れない時があってもあなたは祈られている。
 簡単なことだよ。「ありがとう」って伝えればいいんだ。
 全てのことは、あなたに与えられている。あなたを一番大切にしておられる方から与えられている。あなたを大切にしてくれる方は弱っちい得体の知れないような方じゃない。あなたを大切にしてくださる方は、光も風も自然も全てを創られた方なんだよ。だから安心して。
 あなたは生きてていいんだよ。
  S

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光と影

神よ、天の上に高くいまし栄光を全地に輝かせてください。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』詩編108編6節

 いよいよ、夏本番です! このジリジリと照りつける太陽の日差しが、街路樹の下に鮮明に枝葉の影を映し出しています。
 小学生の時、太陽の動きと影のでき方を観察するという夏休みの理科の宿題がありました。白い紙の上に一本の棒を固定させ、紙に映った棒の影の先端に一時間おきに印を付けていく......。すると、太陽が東から南に移動するに従いその影は短くなり、南から西に移動するにしたがって、また長くなる。そして、最後、その並んだ点を結ぶとなめらかな曲線ができるという昔から当り前のことでも、初めて知った幼い私には、それは大きな発見でした。
 それからだいぶ経って後、赤道直下では太陽が一番高い位置に昇ったとき、それはちょうど私たちの頭の真上にあるために、人の背後に影はできないということも知りました。
 また、小学生のときにこんなことがありました。晴れた日曜日の教会学校で、先生がカーテンを閉めて薄暗くした部屋の中、「これからカーテンを一気に開けますから、何か変化を見つけてください」と。そして、カーテンがサッと開いた瞬間、「わぁっ~、ほこりがいっぱい飛んでいるのが見えるー」と子どもたち。それに対して「部屋が暗いときには、このたくさんの埃は見えなかったけれど、明るくなったら空中に飛んでいるのが良く見えますね」「この光は神様の光です。神様から離れて隠れていても、神様の光が当たると、私たちは、この埃のように全部見えてしまうんですよ」と、先生はお話しされました。
 私たちが神様を遠くに見ている限り、自分の影は長く延びる......。言い換えれば、神様から遠く離れている時は、私たちの心の中に闇が大きく拡がっているのかもしれません。けれども、神様を自分の真上に、近くに見たとき、私たちの影も短くなる。それは、神様が近くにいてくださると信じるときに、私たちの心の中の闇も消されて明るくなっているということではないでしょうか。
 そして、人からは気づかれていない、あるいは知られていないと思っている態度や行為も、神様の眼差し、光が射しこめば一瞬にしてその姿は明らかにされるのです。
夏の日々、太陽の光を全身に浴びるように、神様の光を心いっぱいに受けて元気に輝きましょう!
JUN

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瞳を閉じて

主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』ルカによる福音書11章1節

 「ああ、今日は胃袋がどこにあるのか、わからない!」
 彼女は、うれしそうに言いました。
 彼女は妻の友人。ある日、うちに泊まりに来てくれたときのことでした。せっかく来てくれたのに、彼女はおなかが痛くなって夕飯も一緒にできません。でも、夜ゆっくり休んだおかげで、朝には元気回復。さわやかな顔で起きて来た彼女が言ったセリフが、それでした。
 面白い表現だなぁ、と思いました。確かに痛くもかゆくもない時、自分のからだの中の様子は気になりません。もちろん、どのへんに胃袋があるのかもわかりません。痛み出した時に、ああ、確かにここに胃袋がある、とわかります。病気になって初めて健康のありがたみがわかる、ということと通じるでしょう。

 同じことは、あいつについても言えるかもしれません。
 あいつは内臓器官と違って、そもそも本当に見えません。でも、あいつが痛む時があります。大切な人が苦しんでいるのを見たとき、あいつは痛みます。その時、あいつがあることがわかります。あいつのことを、心と呼ぶこともあり、感情と呼ぶこともあり、気持ちや思いと呼ぶこともあり、魂と呼ぶこともあります。
 きれいなお花を見て、感動できる人を、心が豊かな人なんて言うことがあります。そして、逆の場合を、心貧しい人とか、心ないことをした、などと言います。
 この目では見えないあいつを、確かにそこにある、とわたしたちは自然と見て取っているのですね。この、目には見えないあいつを豊かに育てることができることも、わたしたちは知っています。子どもたちが、しっかり食べて、しっかり運動して、しっかり睡眠をとると、からだが成長していくように、あいつは成長することができます。
 いや、成長という言葉は合わないかもしれません。あいつが安らいだり、落ち着いたりするために、できることがあると言ったほうがいいでしょう。あいつは、からだが栄養を取るように、「わたしにも栄養補給や深呼吸の時間をください」と耳では聞こえない声でよく叫んでいるようです。
 その栄養補給や深呼吸の方法を、ひとつここで紹介しておきます。
 目には見えないあいつに安らぎを与えるためには、やっぱり目を閉じることです。目を閉じてみた時、あいつは、「ようこそ」とわたしたちを迎えてくれます。そして、わたしたちがあいつに安らぎを与えているつもりが、わたしたちがあいつから安らぎを受けるという逆転劇がそこで起こります。
 あいつは、目を閉じたわたしたちを、まだ見ぬ明日を思うことや、ここにはいないあの人のことを静かに思い起こすことや、そして、生きる意味なんていうものまで考えさせてくれながら、再びわたしたちをこの世の見える世界に送り出します。
 その時、世界は少し違って見えます。目をつむって、あいつに、大切なものを見せてもらったおかげで......。栄養を与え、深呼吸させたつもりが、あいつによってわたしが深呼吸させてもらうことになるのです。あいつの魔法です。
 たぶんあいつは、目には見えない神さまへの直通電話を持っていると、わたしは踏んでいます。
パパレンジャー

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伝言、確かに受け取りました

神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行ないによるではなく、御自身の計画と恵みによるのです。
テモテへの手紙二 1章9節(日本聖書協会『聖書 新共同訳』)

  いろいろな年齢の方と伝言ゲームをしたことがあります。
 幼稚園のお友だち。鼓隊の練習をがんばりました。流れてくる音楽に合わせて大太鼓、小太鼓、鉄琴、キーボードを演奏しました。先頭を歩く指揮者もお友だちです。鼓隊の後ろにはバトンのお友だちもいます。おそろいのベレー帽とベストが素敵です。立派にパレードができました。
 その翌日です。「伝言ゲームしようか。初めてだね。まず、先生がみんなの列の先頭さんに言葉を伝えます。先頭さんは、うしろのお友だちのお耳のところで小さい声で伝えてね。そして、いちばんうしろのお友だちは、どういう言葉がまわってきたか覚えていてね」。わたしはお題を出しました。「きのうのパレード、かっこよかったよ」。先頭のお友だちは一生懸命にうしろのお友だちに伝えました。順番が待ちきれない子もいました。すべてのグループが最後まで伝えられました。いちばんうしろのお友だちが聞いた言葉を一緒に言ってもらいました。「きのうのパレード、かっこよかったよ」。みんな、大正解です。

 小学生のお友だち。少し長い文章の伝言ゲームでも大丈夫です。「きのう、隣りのようこちゃんのお庭にアジサイの花が咲きました。ピンク、むらさき、白色の花でした」。多少、聞き間違えて後ろのお友だちに違ったことを伝えるグループもありましたが、大筋は最後まで伝えることができました。

 大学生の学生さんには、絵を書いて伝える伝言ゲームをしました。お題は「カッパ」です。絵本で見たことがあるような、ないようなものです。頭の中でだいたいの形を思い浮かべることができても、実際に紙の上に書いてみると自信がなさそうです。書かれた絵をすぐ後ろの人だけが見ます。「カッパ」の絵であることが伝われば万々歳。けれども、あいまいな記憶の者同士が伝えるものですから、なかなかうまくいきません。とうとう目が強調されていきました。手足が短くなりました。最後の学生さんが書いたのは、「トカゲ」のような絵でした。

 わたしがイエス様のお話を始めて聞いたのは中学生の時です。多分、わたしが聞いたイエス様のお話は、2000年前にユダヤで人々が経験したことと同じだと思います。イエス様のお話は『聖書』に記されました。『聖書』の言葉は時代を越え、国を越えて伝えられました。2000年前の出来事が今、わたしの心に届けられています。とても不思議です。
 わたしの心に確かに届けられました。「神様はわたしを愛してくださっている」ということを。
M。

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いらかの波と雲の波...

わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。
コリントの信徒への手紙一 2章12節a(日本聖書協会『聖書 新共同訳』)

 その重なる波の中空を泳ぐのが「鯉のぼり」です。梅雨空ならまだしも、風薫る5月、それこそ「五月晴れ」の青空になぜ魚が、と子ども心に思いました......。
 旧暦の5月、「皐月」だったのですね。皐月はまさに梅雨の季節。そういえば、松尾芭蕉の「五月雨をあつめて早し最上川」も梅雨時のことゆえ納得です。雨の季節であれば、「鯉の滝昇り」も、鯉のぼりも絶妙な組み合わせということになるのでしょうか。
 「東京は雪」と伝えられた3月初旬、乾季に入ったばかりのインドはデカン高原、その西端で「熱風」にさらされていました。日中、炎天下での気温は30度を越えていたことでしょう。しかし、木陰や建物の陰に入ると、そこはひんやり。吹く風も、薫風というか、涼風というか、とにかく心地よく、さわやかなのです。全身から汗と疲れを拭い取るように、吹き抜けていきます。おもわず「ゴクラク、ゴクラク......」。
 「薫風」という、さわやかな初夏、青葉の季節を連想させる言葉の出典は漢詩だそうです。そこには、皇帝と部下のこんなやりとりがあります。皇帝が「人は皆、炎熱に苦しんでいるが、私は夏の日の長いことを愛する」と言うと、すかさず、部下が「薫風は南より来たる(薫風自南来)、殿閣に微涼の生ず」と答えたのだそうです。熱風を「薫風」と言い替えたところが味噌なのでしょうか。
 いずれにしろ、インドの炎熱の薫風? に打たれ、熱中症寸前、へろへろ、くたくたになった人間が、木陰に身を寄せ、建物の陰の地べたに身を伏せる時、生き返るのです。日本では吹かないであろう乾ききった風。それは時に熱風にもなりますが、木陰の爽快感は、日本では味わえないものでした。薫風に感激、感動、感謝。風は不思議ですね......。
 イエス様も「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない」と言われました。ご自分のことを「風」にたとえられたのです。目には見えず、音がするだけの風。
 飼い葉桶に生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ死なれたイエス様は目を見張るような存在ではありませんでした。
 イエス様は続けて言われます。「霊から生まれた者も皆その通りである」と。わたしたちも、神様からの霊をいただいて、「風」のように生きるのです。目には見えなくても、爽やかに、力強く。
 5月31日、その神様からの霊、聖霊が与えられたことを記念し、お祝いします。
 「霊よ、四方から吹き来たれ。......そうすれば、彼らは生きかえる」(エゼキエル書37章9節より)。

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希望の確率

なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。...(中略)...しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。
(フィリピの信徒への手紙3章13b〜16節)

 幼い頃の夢が実現する確率というのは、3%らしい。ふと、そのようなことを小耳にはさみました。3%、100人に3人。30人程度のクラスメイトがいたとして、1人いるかいないか、というところでしょうか。
 もちろん、成長していくにつれてまた別の夢が生まれてきて......ということもありますから、一概にはどうとも言えません。しかしそれでも、おそらく90%以上の人は、幼いころ夢に描いていた自分とはちがう人生を送っている計算になります。
 幼いころの夢を持ちつづけて実現させるという、その意志の力は本当に貴いものだと思います。しかしわたしたちが人生を歩む中で、何かをあきらめなければならないことが決して少なくないのもまた、事実です。

 ある目標に向かって進んでいたはずが、気がつくと思っても見なかった場所にいることがあります。夢を追い続けることを状況が許さないことがあり、また、努力したのだけれども、どうしても届かないことがある。人生思うようにはいかないというのは充分わかっているつもりなのだけれども、理想と現実の差に苦しみ、立ち止まってしまう。大なり小なり、そのような経験は誰にでもあるのではないかと思うのです。
 しかし、泣く泣く夢をあきらめて別の道に進んだ、けれどもその道こそ自分の天職だった、ということだってあります。華やかなプロスポーツ選手になりたかった、けれども実際についたのは希望とは違う、目立たない裏方の仕事だった。けれども裏方がいなければ、試合は成り立たないのです。人生思うとおりにいかないことがある、いやむしろ、思うとおりにならないことの方が多いかもしれません。しかしそこで、ただむやみに理想ばかりを見るのではなく、立ちどまってもう一度、今いる場所を見直してみる。するとそこで新しく、見えてくるものがあるかもしれません。そこで生きがいを見出し、そこにとどまるという道もあり、もちろんそこから一発逆転を目指して夢を追い求める道もある。選択肢はいくつもあります。しかしどの道を選ぶにせよ、まず立ちどまって、深呼吸。そこから見えてくるものが、きっとあるはずです。
 新しい季節が始まります。これからもまた、理想と現実の差に悩むことはあるのでしょう。思いがけないできごとに、まったく違う方向へと背中を押されて戸惑うこともあるのでしょう。しかしそこで「世の中、思い通りにならない」と嘆くより、今いるところでいったん立ちどまり、いま何ができるか、自分はどうしたいのか、今の自分の役割は何か、と「到達したところに基づいて」考え、問いかけながら歩んでいく。そのような歩みもまた、楽しいものとなるかもしれません。祈っています。どうぞ、良い人生の旅を!
Aki

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そのままのあなたで

マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」
ルカによる福音書1章38節(日本聖書協会『聖書 新共同訳』)

花になろうよ。
とは言っても綺麗に着飾る必要もないし。他の人より目立つ必要もない。ただ、今与えられている場所で生えればいい。今与えられている「時」を感じて精一杯生きればいい。


そのまま生きるって、なんだか難しい。
「そのままのあなたでいい」って言われたことある? 「そのままのあなたでいい」そう言って一人ひとりを受け入れておられる方を知ってるよ。自分がそのままでいいはずないじゃんって思ってたって、あなたが気付かなくたって、もうすでにあなたの存在そのまま丸ごと受け入れられている。
「うそだ」って言われても私にはどうしようもない。
あれも、これもできなくてはいけない。できないと私はだめなんだっていくら思っても。一人ひとりの命をつくられた方がおっしゃるんだもの「そのままのあなたでいい」って。
あなたを包み込む丸ごとの愛は誰にも真似できない。しなくてもいい。それは人間業ではないからね。


そのままの自分てわからない。わからないよね。あなたをつくられた方にしかわからないよ、きっと。
いいじゃん。そのままのあなたがいいんだから。何をやっても私はダメなんじゃなくて、やってみたあなたはすごいと思うよ。深呼吸してみようよ。立ち止まってみようよ。あなたは生かされているんだよ。今というかけがえのない時を与えられているんだよ。
当たり前のものは何もない。朝、目覚めること。言葉を話すこと。笑顔でいられること。歩くこと。食べること。いろんな人と出会うこと。
当たり前のものは何もない。だからって失うかもしれないからと不安になることないよ。今があるんだから、今を精一杯生きればいい。
過ぎた時は変えられない。他人を変えることもできない。あなたが変わればいい。あなたらしく「ありがとう」を伝えればいい。


きっと「ありがとう」がいろいろな色をしているんだよ。「ありがとう」はいろんな形をしているんだよ。命の数だけ。
花になろうよ。与えられた「今」をそのまま生かされて。自分色の「ありがとう」をそのままここに生やすんだ。

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